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あなただから、俺を知って。
「あの子なりに言えないこともあるだろうから、私が言っていいのかわからないけど、あの子がいなくなってしまう前に、やっぱり知っておいた方がいいと思うから」
「あの子?」
「舜は前にも、何度かここへ来たことがあるんだ」
「えっ」
怜は咥えようとしたキューブ型のチョコレートをテーブルへ落とし、仁吉を見る。いつのまにか舜、と呼んでいる仁吉に疑問になりながら、口を開く。
「あの、前からおじさんと親し過ぎると思ってて」
仁吉は頷く。
「本当のところは訊いてみなきゃわかんないけども、ここへお前の顔を見に来てたんだ。たぶんね。初めて来た時、あの子はずっとひとりで頑張っているんだ、技を磨くためにね、遊びにも行かなかったよ何年もっておしえたら、気になったみたいでね、じっと見つめていたね。金属の音をじっと聞いてた。それからも何かあるとちょくちょく顔を見せたんだ」
工房へやって来る若い客は大抵、受注の相談に来た家族連れだ。怜に若い子がひとりで来た記憶はなかった。
作業を確認するための大きな窓から工房を見渡し、怜の仕事振りをじっと見ていた舜。自分はいったいどんな顔でなにをしていたのか。怜はハムスターにでもなった気分だった。
「あの子は、俺の昔馴染みの男と訳ありだったんだ。オーダーのために、ふたりでここへ来たんだよ」
そこまで聞いて、怜の脳裏に事務所で見つけた舜の写真を思い出した。
舜の躊躇うような顔をした、ツーショット。スターと新人。怜はふたりの間に抜き差しはならないものを見てとった。圧倒的な力の差がある、決して対等にならない、ならないからこそ続く歪な関係。
それは舜の仕事が軌道に乗ると入れ替わりに、あっさり関係は終わったという。舜の若い後輩に関心が移り、舜は解放されたのだと。
でも、心はそう簡単に割り切れてくれなかった。怖いくらい前向きに見える舜でも、無傷でいられるわけではない。
「その上、病気もわかって、だから、もう会えないかもしれないから、挨拶に来ましたってね。泣きはしないけど、随分と悲しそうだった。折角大きな舞台も決まったのだから、肩を落としちゃいけない、怜もいろいろあるけど頑張ってるって。言ったけれどね」
怜が感じていたふたりの間にある特別な繋がり。自分にすら寄せていない信頼が仁吉にはあるように感じる。喜怒哀楽の何もかもを見ている仁吉を初めて疎ましく思った。
「おじさん、俺より舜のこと知ってるよね。あいつは俺を通しておじさんを視ているのかな」
仁吉は、ははは、と声に出して笑った。
「違うよ。春頃、舜が来た時、お前を紹介しようとしたら遠慮されちゃってね。そのあと横浜へ移ったと知って、面識のないお前に、自分から会いに行ってしまったんだよ。よほどお前が気になってたんじゃないかねえ」
温かなコーヒーを飲み、仁吉はひと息ついた。
「あの子は、舜は、なにも知らないお前に、好きになって欲しかったんだよ。自分を知らないお前に」
他人にとって都合のいい自分を演じ続けた舜。人気商売ならではの贅沢な悩みかもしれなかった。
それだけではなく、実家でも、訳ありの男にも。相手の求める姿しか見せなかった。心が休まる時間なんてなかったのだろう。
きっと、切実だったのだ。誰かに自分を受け止めてほしかった。
いなくなる前に。
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