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3
温室に行った日の翌日は、夏服への衣替えのひだった。学校への通学路を歩く春香の心持ちは、普段と少し違っていた。
学校までの二人きりの道。姉はいつも春香の隣に立ち、言葉に耳を傾けてくれた。これまでも、これからも、それはずっと続いていくのだと思っていたのにーー。
「春ちゃん?」
突然名前を呼ばれ、春香はハッとしたように顔を上げた。すると衿子が心配そうな顔で春香の顔を覗き込む。
「どうしたの? 具合でも悪い?」
「う、ううん、大丈夫」
「そう? なんかいつもより元気がない気がしたんだけど……」
その時、正面から歩いてくる原田の姿を視界にとらえる。彼は二人の姿に気付くと、かすかに微笑んだように見えた。
その表情に苛立ちを覚えた春香は、また昨日のように姉の手を取って校舎に向かおうとする。しかしその時、
「あっ、佐倉さん! おはよう。ちょうど良かったよ、聞きたいことがあるんだー」
と声をかけられ引き止められてしまう。
声をかけてきたクラスメイトに気を取られている間に、原田と衿子の距離が近付いていくことに、不思議な緊張感が身体中を走る。
春香の視線の少し先で、衿子と原田がすれ違う。その瞬間、春香のまわりだけ時間が止まったように静まり返る。
原田はまた姉のすぐそばを通り抜けて行くーーその意味が今日ようやくわかった。
衿子と原田の距離がゆっくりと縮まり、衣替えを終えた二人の手の甲がそっと微かに触れ合ったのだ。
少しだけ後方から二人がすれ違う瞬間を目の当たりにした春香は、呼吸をするのも忘れてしまう。
「あっ……ごめん、後でいい?」
声をかけてきたクラスメイトの方も見ないで言うと、早足で姉の元へと駆け寄る。
「衿ちゃん……」
姉の横顔を見た春香は愕然とする。いつも人前では凛とした表情を崩さない姉が、頬を染めて微かに笑顔を浮かべていたのだ。
皆が校舎に向かって歩くこの道で、衿ちゃんがこんな顔をしていただなんて誰が知っているだろう。隣にいたはずの私ですら気付かなかったーーというか、衿ちゃんのこんな顔を初めて見た。
でもきっとあの男は知ってるんだーーそう思うと悔しくなる。
私が知っているのは通学路を通り、正門を入るまでの衿ちゃん。だけどこの門をくぐると、私の知らない衿ちゃんの世界が広がっていることを初めて知った。
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