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はじまりは別室で
古都、京都。
古く人々が残した伝統を今もなお守り続ける京の都。
京の街は、寺院や神社が数多く残り、歴史的建造物も数知れない。街そのものが日本の歴史を物語っている。
そんな日本古来のつややかな地に、おおよそ十五年ぶりにやって来た女の見聞録である。
***
「立花さん。京都とかどうだろう?」
「は……ええと、中学生のときに修学旅行で一度」
課長にわざわざ別室の会議室に呼び出された立花ヒイコは、質問の意図を探ることなく答えた。
立花ヒイコは勘の鋭い女ではない。彼氏が浮気をしていても言われるまで気づかないタイプだ。と言っても、そんな相手はいないのだからその心配はないのだが。
三月に入ると、社員たちは異動の噂話に花を咲かせる。
内示自体は二週間後だが、遠方の異動は上司が早めに打診することになっていた。実際、去年のこの時期に課長に呼び出された社員が札幌支社に異動になっている。
だから、課長に呼び出されたらたいていの人はピンと来るところだ。ところが、立花ヒイコにそれは通用しない。
「そうか。良いところだよ、京都は」
「課長はよく行かれるんですか?」
「いや。ぼくも中学生のとき以来行ってないかな」
「はあ……そうですか」
この期に及んでもなお立花ヒイコはぼーっと課長の話を聞いていた。自覚はないが、そもそもの顔の作りがホケっとしているように見えるのだ。
「御朱印巡りとか流行ってるじゃない? どう、立花さん?」
「あんまり……」
「祇園のしっとりとした街並み、行きたくない?」
「ああ……いいですね」
「でしょう? あとスイーツも外せないよね。抹茶パフェとかさ」
「抹茶パフェ……いいですねえ!」
抹茶パフェを思い浮かべているのだろう。立花ヒイコの口元が緩んだ。
「ところで。立花さんに京都支社へ内示が出ているんだけどね」
ところでもなにも、課長はずっとその話をしたかったわけなのだが……。
数秒間、無言を貫いたヒイコは突然口を開けた。
「えっ……」
――よかった。ようやく伝わったらしい。
課長は、いよいよ本題に入れると安堵した。
***
会議室を出たヒイコは、心臓があわただしく暴れていた。どこから来る自信なのか、ヒイコは自分が地方に転勤になることなど考えてもいなかった。
呆然としたまま執務室に戻ると、ヒイコはすっかり噂の人になっていた。
すかさず同期の美希と先輩のカンナがヒイコに詰め寄って来た。
「課長、なんて?」
「福岡? 仙台?」
ヒイコは放心状態のまま「京都」と答えた。
「ええーっ! いいじゃん京都!」
「遊びに行きたい!」
ヒイコはふたりの反応を前ににやりとした。
つややかな祇園の街並み、清水寺や渡月橋にも行きたい。それにスイーツ。抹茶パフェか……課長の言うとおりだ。
――うん。うん、うん。なんか、良いかもしれない。
ヒイコはうっとりと目を細めた。
そう、立花ヒイコは単純な女であった。課長の口車にまんまと乗せられている。
「でもさ立花さん、すっごく暑がりじゃなかった?」
「いや、ヒイコってすごーく寒がりだよね」
「えっ……?」
どちらも事実である。立花ヒイコは暑さに弱く、寒さに弱い。
京都は三方を山に囲まれた盆地という地形から、夏はうだるように蒸し暑く、冬は底から凍り付くほど寒いという。
ヒイコはそのことを思い出し、突如不安に襲われる。
「そういえば、ヒイコってひとり暮らししたことあるの?」
美希の問いに、ヒイコは固まった。
「……ない」
生まれてこのかた一度もない。
大学は仕送りができないから通えるところにしてと母に言われ、特に異議もなく従った。就職も十分に家から通える場所にあり、家賃を浮かせられたらラッキーくらいの感覚で月日は経過し、今に至る。
あまりにも実家暮らしが馴染んでしまい、ヒイコは自分がひとり暮らしをしている姿が想像できなかった。
「人間、やってみればなんとかなるもんだから。ねっ」
カンナ先輩の励ましに、ヒイコは曖昧に頷いた。
『大丈夫だろうか……』
美希、カンナ先輩、そして当の本人ヒイコの心に浮かんだ言葉であった。
こうして、立花ヒイコ、人生初のひとり暮らし(in京都)は幕を開けた――
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