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引越しの心得
会社への挨拶を終えて、ひとまずホッとしたヒイコだったが、うかうかしていられない。
夕方に時間指定の大量の荷物が届く予定になっていた。そこに布団やらドライヤーやら取り急ぎ必要なものが入っている。
――逃したら、今晩はフローリングで寝ることになる……いや、畳だったっけ。
不動産屋で鍵を頂戴して、新居に向かった。新居は、烏丸通りから細い路地に入り東に向かった賀茂川のほど近くだ。
最寄り駅からは、ひたすらスマホの道案内を頼りにして歩く。
スマホが目的地に到着したことを告げる。
立花ヒイコ、人生初の自分だけの住まいである。
――ここが、わたしの家……
見るからに古ぼけた二階建てのアパートだ。塗装はだいぶ色あせているが、可愛らしい言い方をすれば、抹茶ミルク色の外観だったのだろう。大きな地震が来たらひとたまりもなさそうだ。
――分かっちゃいたよ……分かっちゃいたけど……古っ!!
これはなかなかだ……とヒイコが唖然としていると、一階の角部屋のドアからヒイコの母親くらいの年齢の女性が出てくる。どうやら、ヒイコが来るのを待っていたようだ。
「立花ヒイコさん、やんね?」
なつっこい笑顔を向けて尋ねてくるおばさんに、ヒイコは一歩後ずさる。
「は、はい。ええと?」
「わたしは、このアパートの大家をしてます楠田です。よろしく」
――大家さん!
「よ、よろしくお願いします」
「一階のその部屋に住んどるから、何か困ったことがあったら言ってね」
――なんと、大家さんが同じアパートに……。
”ひとり暮らしに関する立花ヒイコ調べ其の壱:今どき、隣近所への引越しの挨拶はしないが無難”
学ばない女・立花ヒイコだが、家探しと引越し予約で冷や汗をかいた故、さすがに引越しに関するいろはは調べていた。
しかし、大家さんが同じアパートとなると、せめて大家さんくらいには菓子折下げて改めてご挨拶に行くべきなのだろうか、とヒイコは困惑する。
「立花さん、ご出身は?」
「ずっと関東です」
「そうなんや。ようこそ京都へ!」
――また出たあ!
「は、はい……」
この台詞、嬉しい反面、何度言われても慣れないヒイコにかまわず、可愛らしい笑顔を浮かべる大家さん。
――良かった……大家さん、いい人そう。
立花さんのお部屋は二階ね、と大家さんは案内を始めた。
「あ、ここね。郵便受け」
二階に行くための外階段の手前に、よく見かけるステンレスの集合郵便受けがあった。
――!!!
ヒイコは目を丸くする。全部で六個分の郵便受けには、それぞれに名札が付いていた。
”ひとり暮らしに関する立花ヒイコ調べ其の弐:今どき、郵便受けや玄関に名札や表札は付けないが無難”
「あ、あの……名札って付けた方がいいんですか……」
ことごとく事前調べを裏切られたヒイコは大家さんにおずおずと聞いてみた。すると、大家さんはなぜ当たり前のことを聞くのかといった顔で答えた。
「そりゃあそうや。名前がないと分からへん」
――ほ、ほう。ま、確かに……。
まさに”郷に入れば郷に従え”状態のヒイコなのであった。
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