期待させて

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期待させて

ワンライ企画参加作品。 颯人と悠がまだ付き合っていた頃の話。 −−−−−−−−−−−−−−−  目の前で、悠さんが、ぽろりと涙を流した。 「帰んな」  そう言って俺にしがみつく。 喧嘩していたわけじゃない。 いや、悠さんは俺と喧嘩したからって泣くような人じゃないけれど。 こんな悠さんを見るのは初めてで、どうしたらいいか分からない。おそるおそる指先でそっと髪に触れると、弾けるようにぎゅっと抱きついてきた。 「いったい、どうしたんですか」 「だから、帰んなってっ」  ついさっきまで俺の膝を枕にうたた寝していたのに、今はぎゅうぎゅうと俺の腹に顔を埋めてしまっている。  ……しばらくして、悠さんはゆっくりと体から力を抜いた。 「悪ぃ」  くぐもった声で言う。顔は上げないままだ。 「どうしたんですか?」 「ん、その」  歯切れの悪い応え。 「その、な? ちょっと、その、混乱したっつうか」 「混乱?」  悠さんはまた俺を抱く腕に力を込めた。 「さっきさ、夕方5時のチャイムが鳴ったろ」 「え? ああ、そうですね」  悠さんが言うのは、夕方になり外で遊ぶ児童に帰宅を促すチャイムのことだ。 「あれが鳴るとさ、どんなに楽しくても帰んなきゃいけないだろ。ふと、颯人が帰っちまうって、そう思って」  悠さんは言葉を選んだ。 「悲しくなった」  そう告白する悠さんがたまらなく愛おしくて、俺は思わず微笑みを浮かべた。 「今日はセンチメンタルですね。……帰りませんよ」  悠さんが顔を上げて俺を見て、眩しそうに目を細めた。 「本当か? ちっと遅くなってもいいか? もちろん家まで送ってく」 「いえ、泊まってもいいですよ」  その言葉を聞いて、悠さんは動きを止めた。瞬く。 言い過ぎただろうか。さすがにいきなり、泊まりたい、はなかったか。 「泊まるの? うちに?」 「はい。あの、駄目だったらいいです」 「駄目じゃねぇ! あ、じゃあさ、もう飯にしてもいいか? 早く飯食っちまってさ、風呂も入ってさ、それでさ、……なあ?」  やはり言い過ぎてしまったらしい。良からぬ期待に目を輝かせる悠さんの視線を受け止めかねて、そっと目を伏せ、悠さんの唇を奪った。
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