あなた何も知らないのね

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 だけどアンナは数日と開けずに家にやってきた。僕の帰宅前にいることもあればこの前のように静かに入ってきてはアトリエにこもる日もあった。  顔を合わせれば頭を下げるくらいで僕に見向きもしない。  倫也の言う通りアトリエに用事があるだけなんだと納得しかけた日のことだった。 「ねえ」とキッチンに立つ僕にアンナは声をかけた。  まさか話しかけられるとは思わなかったのでびっくりして振り返ると、彼女は部屋の中を見渡しあからさまなため息をついた。 「あなたヒマなの?」 「えっ?」  言われた意味が分からない。曖昧な笑みを浮かべながら聞きかえすとニコリともしないでもう一度口にした。 「こんな毎日倫也に抱いてもらうために通うなんてヒマなのって聞いてるの」  あまりに言い草にカッと顔が赤くなる。  倫也とそういう事をしたくて通ってる人だと思われてるのか? 「そういうつもりで来てない」 「じゃあなに。最近お気に入りのセフレが男だって学校で噂になってる。どんな奴かと思えばただ可愛いだけのつまらない男だなんてね。甲斐甲斐しく世話を焼いてご機嫌取りしてるつもりだろうけど、倫也も何を考えているのかしら」  酷い言い草なのに反論できなかった。  確かになんで倫也みたいな男が僕に執着するのかわからない。好きだと言ってくれるけどどこがよくて好かれてるのか今でも謎だ。  だけど部外者にそこまで言われるいわれはない。 「そういうあなたこそ黙って人の家に入ってきて失礼だと思わないの?」  せめてもの反論にフンっと小さく鼻で笑われる。 「だってわたし、倫也の正妻だからいいのよ」 「は、せいさい……って」 「正しい妻って書いて正妻。それもわかんないの? 倫也の唯一の彼女はわたし。その他はただの浮気相手。体だけの女たちなのよ。まさか男にまで手を出すとは思っていなかったから笑っちゃうわ」  侮蔑しきったアンナの顔が醜く歪んだ。 「あなたはしょせん新しいセフレ。女に飽きたから手を出されたんじゃない? 本気にしたら傷つくわよ」  そしてズカズカとキッチンに入り込んでくると僕の作っている料理をつまみ口に入れた。一口咀嚼すると眉を寄せてペっと吐き出した。 「まずっ。料理もまともにできないの」 「倫也はそんな男じゃない」  アンナの言っている意味が分からなくて、それでも倫也を信じたくて僕は否定の言葉を口にした。 「確かに女にだらしない奴なんだと思うよ。だけど今は違う。僕だけの男だ」  息を切らしながら繋いだ必死な言葉に、彼女は下から覗き込み僕の前髪をかきあげた。目と目が合うと、ふ、と大人びた笑みを浮かべる。 「みんなそう言うわ」 「違う!」  信じたかった。だけど何を?  まだつき合う前だって倫也が女といるところに遭遇した。3人でしようって口にしたあの女も、今目の前にいる女もみんな倫也と関係を持っている。そのことにあいつは何の感情も抱いていない。  抱いてくれと言うから抱いた。それだけの事。  それが僕が相手だからというだけで変わるか?  倫也の本質をまだ僕は知らない。いつもニコニコと笑って僕を包み込んでくれる優しい倫也しか知らない。  アンナは同情するような視線を向けると背伸びをして顔を寄せてきた。何かを探る様にじっくりと目の中を覗いている。 「可哀そうに。同情するわ」 「違う」     アンナは顔を離すと「どうせすぐ終わるわよ」と言った。 「出発まであと少しだしね。それまでせいぜい楽しく遊ぶといいわ」 「出発?」  意味が分からず聞き返すとさすがに憐れむ表情を浮かべた。 「あなた何も知らないのね。倫也海外の画廊に買われてそっちに行くことになったのよ」 「え、海外? 画廊って、」 「倫也の絵を気に入った海外の画廊の人が倫也ごと抱え込みたいって話が来てるの。まあこれで名を馳せたら一躍有名になるでしょうね」 「なにそれ」  聞いてない。  全然知らなかった。倫也は何も話してくれなかった。僕に言わなくてもいいって思ってた? どうせ期間限定のセフレだからって。 「ね、倫也ってそういう男なのよ。だから可哀そうって言ったの」 「あなたは?」  声が震えていた。  彼女だと言い張るこの女だって置いていかれるんじゃないのか。それなら僕と同じだ。  だけどアンナはニコリと美しい笑みを浮かべた。教科書にも載れそうな正しい比率の笑顔で。 「わたしはついていくに決まってるじゃない。向こうで挙式する予定よ」  目の前が真っ暗になった。  彼女の言っていることは嘘だと思いたい気持ちと、リアルな現実の前に頭の中がグチャグチャだ。 「倫也なんかに捕まってバカな男ね」  憐れむように微笑まれて僕は咄嗟に目をそらした。 「帰ります」  そんなつもりはなかったのに震えた声が出た。  倫也のことを何も知らな過ぎて。僕といるときの倫也と彼女の知っている倫也は全然違う生き物なのか。  作りかけのご飯を捨てるアンナを尻目に僕はキッチンを飛び出した。  これ以上あの子と一緒にいたら頭がおかしくなってしまいそうだ。  いつの間にか外は雨が降り始めていた。  一瞬でずぶ濡れになるほどの強い雨。水たまりをバシャバシャと音を立てながら走っていく。  目の前が見えないほどの雨脚は涙を隠してくれるからちょうどよかった。  倫也に対する不信が一気に噴き出してきた自分にも嫌気がさす。好きだと言いながら結局は信じ切れていなかったんだ。見せかけの優しさを愛だと思ってそれに縋った。  アンナに言われた言葉が頭の中を駆け廻って、それを振り落とそうとしたけど無駄だ。  頭の中にも雨が降れば流れていくかもしれないのに。  ポケットの中のスマホが着信を伝えて震えている。見ると倫也ではなく優一からだった。
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