亀裂

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亀裂

 待ち合わせの場所に行くと全身ずぶ濡れの僕に優一は慌てたように駆け寄ってきた。ポタポタとしたたりおちる水が床を濡らしている。 「どうしたんだ、傘は?」 「持ってない」  ヘラっと笑うと優一はグっと眉をしかめた。 「風邪を引いたらいけない。どこかに行こう」 「優一」  肩を抱かれて誘われるまま優一の後をついていく。  こんなところを倫也に見られたら怒られるかなと一瞬頭をよぎったけれど、もうどうでもいいか、と諦めた。  アンナの言うことが事実だとは信じがたい。  だけど彼女の言うことを否定しきれなかった自分が嫌だった。  雨脚はさらに強さを増して、ニュースでは警報が飛び交い始めている。家に向かう足も無くなるのは時間の問題だろう。 「こんな日に悪かったな」  謝る優一の背中に「ううん」と首を振りながらついていく。 「どうしても早く言わなきゃいけないことがあって。焦ってしまった」 「何?」 「この前は本当に申し訳なかった」  振り向いてガバリと頭を下げる。ぴったり直角な角度に優一の真面目さが出ていて、ははっと笑った。 「そんなことのためにこの雨の中?」 「それだけじゃないけど、まず謝らなきゃと思って。お前を傷つけた」 「うん、まあそうなんだけど」  困ったように首の後ろをかく。  正直優一のことをそんなに怒ってはいなかった。  結婚しようとした女に騙されていたらそりゃ冷静じゃいられない。優一が唯一甘えてくれたのが僕で嬉しい気持ちもあったし。  その後のゴチャゴチャは大変だったけど、これで優一との縁を切ろうとは思っていなかった。  倫也が嫌がるから距離を置いていただけで、本音はずっと友達でいたい。 「優一こそもう大丈夫なの?」 「なんとかな。相手から慰謝料ももらった」 「わお。謝ってくれたんだ」  どうやら体裁を気にした彼女の両親が内密にと慰謝料を払ってくれたそうだ。当人たちはケロっとしてすぐに結婚したそうだからおめでたい頭をしている同志だったってことだ。 「こっちは腫れ物に触る扱いを受けているって言うのにな」 「あーご愁傷様です」  結婚相手に騙され逃げられた男といえば確かに腫れものだ。だけど優一はもう気にしていないらしく晴れ晴れとした表情を浮かべている。 「光琉のおかげだよ」  優一は振り向いて笑みを浮かべた。 「お前のことが好きだって思ったら彼女のこともどうでもよくなった。もしかしたら俺も同じように本当の気持ちから逃げる口上に彼女を使ったのかもって思ってな」 「優一……」 「謝るなよ。勝手に俺が好きだと気がついただけなんだから。それよりあいつとはうまくいってるのか?」  このタイミングで聞いちゃいますか。  こらえていた涙がぷくりと浮かんでしまった。頑張ってくれよ、僕の目の表面張力。  だけど優一は誤魔化されてはくれない。  まぶたに指を這わせるとそっとぬぐい取った。 「雨が強いからな」 「……そうだよ」  雨のせいにしてくれる優一の優しさに今は甘える。  と、クシャンと大きなくしゃみがでた。続いて2発。雨に濡れた身体はどんどん冷えてきてものすごく寒い。  タクシー乗り場は帰宅を急ぐ群衆でものすごい行列だった。これを待っていたらいつ帰れるかわからない。  仕方ないとそばのホテルを探したら数件見つかった。非常事態だしな、と体のいい言い訳を見つけたように僕たちはホテルへと向かった。  フロントもチェックインの人の波でごった返していて、何とかダブルルームだけが取れた。鍵を持ちながら絨毯が張り巡らされた廊下を歩いていく。  足音が吸い込まれてまるで秘密を隠してくれるかのようだ。 「連絡しなくていいのか?」  優一が何でもないように言う。僕は首を振って否定した。 「彼女が来てるから」 「誰の?」 「倫也の」  言うと「は?!」っと優一が大きな声を出した。 「なんだそれ。どうなってるんだ?」 「僕にもわかんない。彼女と対面して、あんたなんて遊ばれてるのよって言われて」  さっきのシーンを思い出したら悔しくなってきた。なんだよ正妻って。2時間ドラマでしか聞いたことのないワードを出して、あの女ホントに大学生か? 「それで雨の中飛び出してきたと」 「そう。ちょうど優一から連絡が来た時だった」 「それはタイミングがいいって言うか、なんていうか」  ドアの前でカードキーをふれさせる。開錠の音がしてドアを開くと、ありがちなビジネスホテルの作りの部屋だった。ソファがふたつと小さなテーブルがこじんまりとした部屋におさまっている。  大きな窓からは雨に埋もれそうな町の景色が見えた。 「ダブルで悪かったな」 「泊まれるだけラッキーだよ」  優一はすぐにバスルームへと向かってお湯を張ってくれた。僕は暖かいお茶が飲みたくてポットからお湯を注ぐ。カップに二人分のお茶を淹れて渡すと、指先が触れ合った。  あ、っと言ってお互い慌てたように離す。  今までにはない反応で、少しだけ落ち着かない。 「ありがとう」  受け取った優一は一足先に落ち着いてお礼を口にしたから、僕もそれに倣った。  温かな液体は身体を内側からぬくもらせてくれる。  窓辺に立つと音もなく雨が流れていった。    こんな雨の中倫也は濡れていないだろうか。今朝傘を持っていったっけ。帰ってきて僕がいないことに気がついたらどうするんだろう。久々に彼女と二人甘い夜を過ごす?  気づけば倫也の事ばかり考えてしまって僕は乱暴に首を振った。何度も振りすぎてむちうちになったら倫也のせいだ。 「光琉、お風呂のお湯がたまったぞ」  バスルームから優一の声が聞こえてハッと我に返る。 「ありがと。お先に失礼するね」 「ゆっくり温まれよ」  腕をまくってお湯の温度を確かめてくれた優一と入れ違いにバスルームへと入る。こんなに優しい男をだました女に罰が当たりますようにと密かに願う。  お湯に足を入れると冷え切っていた足先がジンジンと痺れた。慣らしながら全身を入れとろけるような肌触りにほうっと息を吐く。  顎先まで浸かりながらゆっくりと足を延ばした。  こんなにのんびりとお風呂に入るのも久しぶりだ。いつもは倫也とぎゅうぎゅうになって入っているから。途中で盛り上がり始めて結局のぼせそうになるんだ。  ああ、また倫也のことを考えている。  手にお湯をすくって流すように自分の顔にかけた。
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