亀裂

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 しっかり温まってからガウンに包まってバスルームを出た。優一は一人掛けのソファに座りながら窓の外を眺めていた。手にはまだお茶の入ったカップを握っている。 「お先にありがとう」  背中に声をかけると振り向いて「温まったか?」と優しい声をかけてくれた。 「おかげさまで」 「そうか。スーツは急ぎでクリーニングに出してもらった。それで、これ」  言いながらスマホをテーブルの上に乗せた。 「見るつもりはなかったけど、さっきから鳴りっぱなしだ。心配してるんじゃないのか」  それはスーツのポケットに入れたままのスマホだった。クリーニングに出す時に取り出したのだと言う。 「ありがと」 「俺は風呂に入ってくる。ゆっくりしててくれ」  優一は僕の肩をポンと軽き、すれ違うようにバスルームへと姿を消す。  スマホの通知が倫也の名前で埋まっていた。帰ってきて僕がいない理由を聞いたのかもしれない。  電源を落とそうか迷って、かけなおすことにした。  倫也の事だからこの雨の中僕を探しに飛び出すかもしれないと思ったから。   かけるとすぐに倫也は出て「光琉さん!」と叫んだ。耳がキーンと音を立てる。 「今どこですか!」 「そんな大きな声を出さなくても聞こえる」 「落ち着けって方が無理でしょう!」 「……そっか」  倫也の息が荒くなっている。もしかして外かと聞いたらさすがに家にいると答えてきた。 「探しに行こうにもどこに行ったのかわからないし。家に向かおうかと思ったけどこの雨で交通機関は全部だめで……すみません」 「謝ることないよ」  この雨の中外にいられた方が困るから。 「光琉さんはちゃんと雨をしのげていますか?」 「うん」  さすがに優一とホテルにいるとは言い出せなくて言葉を濁した。 「大丈夫。建物の中に避難してる」 「ならよかった。めっちゃ心配しました」  そういう倫也はあの子と二人きりで家にいるんだろうか。この土砂降りの中さすがに帰れとは言わないだろう。ああ、そうか、彼女だったらそれが当然か。僕がいなくて二人きりの時間を過ごせるわけだ。  沈黙する僕に倫也は言葉を繋げる。 「帰ったらアンナがいて、光琉さんは帰ったっていうから。なんでですか?」 「彼女から聞いてない?」 「アンナ? いえ、知らないうちに帰ったって……何かありましたか」  彼女なら堂々と責めればいいのに。他の男といちゃついてるなって。浮気なんかするなって倫也を独り占めすればいいのになんでそんな嘘ばかりつくんだろう。  あの子も僕と一緒か。二人の関係が変わるのが怖いんだ、きっと。  馬鹿だな。 「今二人なの?」  聞きたくないのに言葉は勝手に出た。そうだって答えられたらどうしていいかわからなくなるくせに。 「この雨じゃ帰せなくて。泊めることにしました」 「あのさ」と口が動いた。 「浮気とかもうやめた方がいいよ。彼女の前では特にさ。可哀そうじゃん」  可哀そう。アンナが僕に何度もはいたセリフだ。可哀そうなのはあなたじゃないの、彼氏を独り占めできないで。浮気をなんで公認してるの。  言ってやればよかった。 「彼女?」 「アンナさんのこと。彼女辛そうだったよ」  何か言い訳をするかと思ったけれど、倫也はしばらくの沈黙の後に頷いた。 「……わかりました」  なにがわかったのか、沈黙の意味がなんなのか、僕にはわからない。だけど倫也は「ちゃんと話します」とだけ続けた。 「光琉さん、好きです」  この期に及んでまだ言うんだ。  泣きたくないのにこらえていた涙があふれた。  お前が分かんないよ。僕を好きだと言いながら他の子も受け止めるその気持ちも。彼女がいながらその前で僕を抱きしめるお前が理解できない。 「明日」と倫也が言う。 「迎えに行きます。会ってくれますよね」 「わかんない」 「でもまた連絡します」    通話が切れても僕は呆然としたままスマホを握り締めていた。  まさかこんな突然の別れが来るなんて考えていなかったな。愛人でもいいって言えば浮気相手メンバーに入れてもらえるのかな。そんな浅ましい考えがよぎって情けなくなる。  その他大勢の中の一人。倫也の気が向いたら抱いてもらえる相手。そんなものになりたかったわけじゃない。  いつのまにか優一がバスルームから出てきていて僕を後ろから抱きしめた。 「すまない。聞くつもりはなかった」 「はは、馬鹿みたいだろ」  窓に映った僕は情けない顔でベソをかいている。いい歳した大人の男が何をやってるんだ。 「バカじゃない。光琉、お前はただ恋をしただけだろ」 「恋。恋かあ、なんだろねこんなつらい思いをするだけなら恋なんてしたくない」  優一に対しても倫也に対しても。なんで僕はいつもこうなってしまう。普通に愛されたいだけなのに。好きな人と一緒にいたいだけなのに。  優一は僕を抱きしめる腕に力を込めた。 「泣いてもいい。全部話せ、聞いてやる」 「優一、」  僕はボロボロと泣きながらこれまでの事を話した。  僕を好きだって言うくせに本命の彼女がいたこと。アトリエを使うと言って知らない人が入ってくるのが当たり前な倫也の生活。倫也を囲む人間関係の複雑さが理解できなくて逃げてきてしまった事。  口に出してしまえば倫也は最低な人間なのになんでこんなに好きなんだろう。僕みたいな恋愛に不慣れな男なんか落とすのも一瞬だったろう。駆け引きもいらなかったはずだ。なのに必死になって僕を好きだと言う。  本当の気持ちはどこにあるんだろう。  それでも倫也が好きな自分だって理解できない。  普通に恋が出来たら、好きな人と二人だけで想い合えたら、欲しいのはそれだけなのに。  優一は静かに僕の話を聞きながら「辛いよな」と呟いた。 「だけど俺が会ったあの人はそんな半端な気持ちでお前といるとは思えなかったぞ。殴られなかったのが不思議なくらいでさ。目が合った瞬間に散った火花がみえなかったか?」 「そんなの見えないよ」 「そうか……一瞬のことだったけど、あの目は本気で俺を殺そうと思ってた」  それは優一が酔って僕を襲った時の話で、玄関ですれ違い際に激しい攻防が繰り広げられていたらしい。僕は縛られて転がされていたから全然知らなかったけれど。 「あの時、ほんとに光琉の事が好きなんだって伝わったし、あいつになら任せてもいいかなって思った」  なのに彼女がいたとはなあ、と優一は息を吐いた。 「何か間違いじゃないのか?」 「だって彼女だって本人が」 「言うのは勝手だからな。あいつが認めたわけじゃないんだろ?」 「そう、だけど」  だけどすごくお似合いだった。仲が良さそうで隣にいるのが当たり前って雰囲気で。 「誰かと付き合ってるって言うのは簡単だからな。気持ちがなくても平気で結婚しようとするやつもいるくらいだ。嘘をついてしまえばそれが現実ぽくなるしな」  自分がされていた優一の言葉には力があった。  でもそれはわかる。僕だってたくさん嘘をついてきて、そのうちそれに飲まれてしまうんだ。 「優一さん、それは禁句では」 「いいんだよ、自分の事だから」  優一は眉を落として困った奴だろ、という表情を浮かべながら続けた。 「だからちゃんと話し合えよ。あいつの事がそんなに好きならさ」    
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