獣道

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 山道に立てられた看板が、曲がっていた。  白い矢印の上に「登山道」と書かれたその看板は、明らかに獣道を指している。背の高い杉が立ち並び、その足元には名前も知らない草花が鬱蒼と生い茂っている。人一人がかろうじて通れるだけの隙間を見つけることもできるが、踏み倒された草たちに残った噛み跡は、明らかに人間の付けたものではない。  その獣道から少し視線を横にズラせば、整備された道がしっかりと伸びている。削った丸太を階段のように並べ、つい最近付いたばかりの人間の足跡も多数残っている。誰がどう見ても、人間がハイキングのために用意した「登山道」である。  誰かのイタズラか、風雨や動物に当たりたまたま曲がってしまっただけか、理由はともかく、看板をそのままに放っておくのははばかられた。  しかし、同時に、疑念もあった。 「看板が示しているのもまた、登山道なのではないか」  珍しいことではない。道程が異なるだけで、どちらも同じ山頂にたどり着くハイキングコースというものは、意外と少なくない。  何より、看板が獣道を指しているのは、偶然にしては出来すぎているようにも思えた。今この場所で、道は三つ。来た道、行く道、獣道。ほかはすべて、道とは呼べない草木の茂った壁だ。  好奇心が余計なことを考えさせたということもあるだろう。山を歩くようになってしばらく経ち、少しならばアクシデントにも対応できると油断したのもあるだろう。  ここは、チャレンジ精神をともなう険しい山ではない。家族連れが歩くような、簡単なハイキングコースだ。いざとなれば大声で叫べば、どこかしらに人はいるだろう。  そう決めつけて、私は獣道に踏み入った。  一歩踏み出すたびに、細い枝葉がズボンに擦れて、がさりがさりと鳴った。足元の草を踏みつけ、顔の高さに伸びた枝を避ける。緑の匂いが強い。整備された登山道には無い、色濃い、山の匂いだった。  リュックの横に付けたボトルを外して、一口、水を飲む。中身はただのミネラルウォーターだというのに、漂う草木の匂いと混ざりあい、雑草を噛んだような味を錯覚する。  ふと不安を感じて振り返れば、まだ、獣道の入り口が見えた。細い道を人間一人が踏み分けて広げてきた跡も、しっかり残っている。  がやがやと、話し声がした。何人かのグループが、看板の曲がった分かれ道までやってきていた。どこか小洒落た登山服と張りのある声は若々しく、楽しげだった。 「……こっちだろう。どう考えても」  彼らのリーダーだろうか、先頭を歩いていた青年の、そんな声が聞こえた。指さした、整備された登山道を青年が行くと、後続もぞろぞろと続いてゆく。彼らの誰一人として、獣道を踏み分ける私には、気付きもしなかった。  とは言え、私自身、彼らがこちらへ来たら困っていたことだろう。 「こっちは違う。間違っていることを承知で私は来たが」  いくらか年かさの、一人で登山している男にそんな事を言われたら、彼らも戸惑ったに違いない。  あらためて、自分がしていることが馬鹿馬鹿しくなってきた。もう少しだけ進んでみて、戻る道が分からなくなる前に、私も登山道を行こう。  まだしばらく、視界は開けている。何の動物が通っているのか、道は長々と続いているように見える。  がさがさと、一歩を大股にして狭い道を押し広げてゆく。腕時計を見る。正午にもなっていない。日暮れの心配はいらない。  もう少し、奥まで行っても平気だろうか。獣道の入り口からどれだけ離れたか確かめようとした私の身は、しかし、「ざくり」と深く刺すような足音で凍りついた。  重く、土をえぐる足音だった。人が履く滑り止め付きの登山靴では立たない、もっと細く、重たいものが立てる足音。 「あら、迷子?」  それでいて、聞こえた言葉は間違いなく人間のものだった。  立ち並ぶ木々で音が反響し、位置が分かりづらい。やがて、声もあげられずに視線をさまよわせる私の正面に、それは現れた。  それは、鹿に似ていた。焦げ茶色の毛並みは艶めき、頭上の角は枝分かれして大きく広がっている。山道から見かけたら、物珍しさに写真の一枚でも撮っていたことだろう。  しかし、それが私の知る鹿ではないことも、明らかだった。  体長はヘラジカほどの大きさがあり、こちらをじっと見つめる目は深緑色に濁っている。何よりも、口元を歪めた笑みが、私の知る鹿――いや、動物ではないと、物語っていた。  おそらくは、恐怖だろう。喉が渇いて張り付き、声が出ない。  やがて、その鹿らしきものは、綺麗に並んだ歯を見せながら言った。 「それとも、あなたもわたしたちになりに来たのかしら?まだ、人の身だものね?」  あ、と、かろうじて絞り出せた声とともに、私は首を横に振った。 「看板が、曲がっていて。こっちを、指していた、ので」  途切れ、掠れた声。私よりも、この鹿のようなものの方がよほど流暢に喋っていた。 「また、誰かぶつかってしまったのかしら。それじゃあ、迷子だったのね?」 「は、い」 「じゃあ、人の道に帰りなさい。ああ、看板も直しておいてもらえると、助かるわ」  言われるがまま、私はきびすを返し、踏み分けてきた獣道を真っ直ぐに戻った。  振り返ってはいけない気がした。道の先には何があるのか、きっと、知るべきではない。  獣道の入り口は、思った以上に近くにあった。曲がっていた看板は、先程の若い登山客グループが直したのだろうか、本来の登山道をしっかりと指していた。  吐き気と喉の乾きを感じ、残りの量など考えずに水を飲んだ。すがるように、リュックを降ろして地図を取り出す。  四つ折りの大きな地図を広げようとしゃがみこんだところで、つま先に違和感が生じた。  登山での靴擦れは、決して軽く扱っていいものではない。足を酷使する以上は小さな傷もすぐに処置が必要になる。何より、靴が合っていないというのであれば、それはすぐに山を降りる理由にもなりうる。  しかし、登山靴を脱ぎ捨てた私のつま先にあったのは、傷口ではなかった。  親指が、細く硬質化している。黒く光り鋭く伸びたそれは、シカの蹄にもよく似ていた。
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