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毎日往復しているこの道が特別だったことなんてない。何事もなく仕事をこなした日も、逆にミスして萎えてしまった日も。この道が特別だったことなんて一度もない。
この日もいつも通り、定時から2時間ほど無駄に頑張ったあと、コンビニ弁当を買って帰る途中だった。いつもの海苔弁と缶ビール。当然過ぎたビニール袋の中身は、もはや安心感すらある。大人になると冒険出来なくなるらしい、なるほど。
道中には6車線ほどの大きさの用水路が、会社から家までの進行方向を遮るように広がっており、その上の橋をいつも歩いている。だいたい野鳥が泳いでいるか、ペットボトルやゴミ袋が流れている。たまに放ったらかしにされた自転車が佇んでいる。
そんななか今日は客人がいた。橋から用水路が伸びる方向に月が浮かんでいて、その様子を缶ビールを片手に見つめている女性。
薄暗いこの時間にはっきりと見えないが、おそらく金髪で女性にしては身長もある。背中まで伸びた髪が、人工の光を反射して冷たく光っている。暑くなってきた昨今、袖のない服に太ももまでのショートパンツ。あまりお利口な人種ではないんだろうなと、これ以上気にしないようにとすぐ視線を帰宅方向へ直す。
けど遅かったらしい。月とすっぽん、すっぽんどころかミドリガメ。俺に肴を変えた。
「なに見てんの?」
思った以上の喧嘩腰。別にその言葉に怒気や不快といった感情は聞こえないが、ただ純粋な疑問にしても温度をあまり感じない。無機質的な圧力を感じる。
「いや、あまり見ない顔だったもので」
「お兄さん、ここら辺の人?」
「ああ、もう少し先に住んでる」
「そう」
なにが腑に落ちたのかわからないが、再び月とお見合いする。用は済んだかじゃあもう帰ろうかと思って、止まっていた足をルーティン通り動かそうとしたら、再びこっちを向いた。
「お兄さんの家で飲もうよ」
「え、なんで」
「座りたい」
「そう・・・そっか」
そっかじゃない。じゃあ分かった家来なよって言えるほどフットワークは軽くない。色んな意味で危険である。
「お兄さん家ってお酒ある?おつまみなんかある?てか一人暮らしだよね?」
もうお邪魔することは彼女の中で確定事項らしい。もう少し世の中に危機感を持って生きた方がいいんじゃないかって、色々つまらないことを考え過ぎながら生きてきた大人はつまらないことを思う。
でも自分もその危機感を持っているかどうかっていう点について偉そうなことは言えないかもしれない。
「・・・コンビニ寄らせてくれ。あと部屋を片付けさせてくれ」
仕事をミスしてそれで自暴自棄にでもなったのか、素面とは思えない判断を下した。
この集いは一回じゃ終わらなかった。残業して遅くなるのが帰るたび、彼女はそこで黄昏ていて、暑い日も寒い日も風が強く吹きつける日も雨の日も、その時間に彼女はいた。そして出くわすたび、俺の家にお邪魔していった。
それなりの頻度で出会っていたのに、俺たちは互いの名前も知らなかったし、連絡先の共有もしていなかった。知ってる個人情報なんてドラマを見るのが好きだとか、おつまみのナンバーワンはビーフジャーキーだとか、もっぱらビールしか飲まないとか、それくらい。
単に忘れていたとか、その必要性みたいなものを感じなかったとか、色々と理由は思い浮かんだが、結局のところ怖かったのだろう。ここからなにかが進むのが、今からなにか変わるのか。
なにも知らなかったし、知ろうとしなかった。いつも行く居酒屋の常連仲間、それくらいの温度感で、むしろそんな温度感だから繋がっていられたのかもしれない。そんなことを最近思うようになった、気がする。
「お兄さん、タバコ吸うんですね」
お酒も尽きて新しい一日が時計的に始まった頃に、買い足しのためにコンビニに寄った。
そのとき彼女は俺が気分転換に吸う程度の喫煙者であることを知った。俺が深夜にバニラアイスを食べるのが好きなのを知った。
俺も彼女は一通り酔っ払うと段々と甘いお酒を飲みたくなることを知った。バニラよりチョコレート派であることを知った。あと、電車を使わずに帰るのはかなり大変だということも。
コンビニから家に戻る最中に、小さな猫を見かけた。夜に紛れた黒い影。首輪っぽいものは見受けられなかったし、華奢な身体をしてたから、きっと住処を持ってはいないのだろう。
ふっと目の前に現れてふっと今日の温度が残る夜に帰っていった。それを見た彼女が似ていると呟いたのが聞こえたから、俺は少しだけ家に戻る足を早めた。
家に帰ってきてビニール袋の中身を広げる。テレビをつけたら薄味のバラエティがやっていた。肴にするには物足りないから、ピリ辛のソーセージをレンジで温めて出した。この時間帯に食べるには威力高め。でも不思議と普通に美味しかった。
そして初めてうちでシャワーを浴びていった。男物のシャンプーしか常備してなかったことを申し訳なく思う。トラベルセットでも買っておけば良かった。
自分がいつも来ている真っ黒な寝巻きを自分以外の誰かが着ている。金の艶やかな一線一線の束がよく映える。安物の寝巻きがゼロが一つくらい増えて良いものになったみたいだ。
彼女が香っていた匂いがいつもの甘い匂いやアルコールの匂いとは異なって、あまりに馴染み過ぎた匂いがすること。そのせいで妙に浮世立った現実に非現実感を味わう。
もうほぼ朝になろうかって時間、今になって明日の仕事どうしようかと静かに焦ったが、まあ無理だったら無理で仕方ないかって思ってしまいながら、部屋の電気を消した。これまで真面目に休まず働いてきたのは、明日仮病で休むためだったのだと。いや、二日酔いはちゃんとした病気かもしれない。
あからさまに1人用のベッドにキャパシティオーバーの質量が重なる。ベッドの外に落ちそうなその軽い身体を少し、ほんの少しだけ引き寄せた。
目を開けられなかった。開けたら見てはいけないものを見てしまいそうで、それはあまりに魔性だから、きっと人が変わったように取り憑かれてしまうだろう。そんな馬鹿なことを思いながら、目前に感じる温もりに知らないふりをした。
翌朝、気づいたときには昨日の夜となにも変わらなかった。隣にいるはずのない記憶がそのまま横たわっていて、寝ぼけながらスマホに手をかけ会社に初めての電話を入れた。
スマホをまた置き直すと、少しだけ空いた目で少しだけはっきりしない声でおはようと言ったから、おはようと返して2人そのままおやすみをした。
そんな日を過ごして、そんな日がその日だけじゃなくなって、きっと世の中か自分が変わったはず。それなのにいつもの道は変わらずいつもの道のままだった。
当然派手な建物が並んでるわけでもなく、平均より小さなコンビニが一つ並んでるくらいの変哲もない行き帰りの道。
いつかこの光景がはっきりと目に見えた変化で、知らないものになるのかもしれないと、現状なにも根拠のない未来に想いを馳せる。
そしていつもの橋の上、いつもの時間。まだ、いつものその影はあった。
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