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山脈への道
アタラクシア山脈……のその名は、古代の木簡にも記されているとおり、“平静不動”を意味する古語である。乱されない心の状態、激しい情熱や欲望から自由な平静な心……を表すことをヴァンさんは知っていた。
なぜなら、かつて山脈の中腹の洞窟に棲んでいたことがあるからだ。土地勘ならチャーリーよりもあることをあえて説明しなかったヴァンさんは、当時のことを彷彿として思い出した。それまではヴァンパイア族にとっては太陽の光は天敵であって、日中は陽を避け洞窟の奥深くて身を潜めて暮らしていたのだが、あるときたまたま出会った若い旅人が処方した薬玉で、ヴァンさんの体質が耐光性へと変化していったのだった。
(……あれは、あたしが紅の十字軍に参加する前のことだから、あの青年はもうこの世には生きてはいないだろうなあ。アタラクシアの名の由来は、かれが教えてくれたんだったわ)
……その青年が、人間であったのか、人外の血を受け継ぐものであったかは、いまだに謎のままである。けれど、ひとたびアタラクシア山脈の名を耳にしたヴァンさんが思い出したのは、恩人ともいうべきその青年の容姿と立ち姿だった。
(あれ、チャーリーに似ているかも)
そんなことをヴァンさんがおもったのは、チャーリーの旅装がいかにもサマになっていたからだった。
太く厚めの革ベルトには、まるめ束ねた縄をぶらさげている。それが縄なのか鞭なのかはわからないが、背にはおそらく手編みなのだろう絹麻混のリュックを背負い、頭には博物館に展示されている鉄兜に似たものをかぶっていた。
「あ、これ……ぼくの家に代々伝わる帽子なんですよ」
蔵から捜し出したものをつけていることに気恥ずかしさを覚えたのか、チャーリーは低い声で弁解した。
「似合ってるわよ、とっても」
「ほんとですかぉ? お護り代わりにかぶっていけと母がうるさいもので……」
「ご家族もさぞ心配なさっていたでしょう?」
ヴァンさんの気がかりはまさにそのことだった。一人息子らしいチャーリーを手放すことは、家族には耐え難いことだったろう。
「……いえ、そんなことはないんです。むしろ、なぜもっと早く旅立とうとはしなかったのかと、叱られたぐらいですから」
「ええっ? そ、そうなの?」
半信半疑のままヴァンさんは、それでも話を蒸し返そうとはしないで、方位を確認するために顎をゆっくり左右に振り出した。
まずは道順をはっきりさせておかなければならない。言い換えれば、それは戦術ということであったろう。アタラクシア山脈への道は無数にあって、テイタスクォー共和国の西隣がギミヤ王国、北隣がネラルミ公国、さらに山脈の向こう側には、IT先進国のサシビタ国がある。
ネラルミ公国は数百年前と違わない農業生産を主軸にしており、テイタスクォー共和国は豊富な鋼源を活用した職人ギルドの首長たちによって構成されたいわばモノづくり共同体である。
一方、ギミヤ王国は旧来型の擬似封建制を採用していて、最も歴史と伝統のある大国であった。
それが壊滅状態……というのは、いささかチャーリーの誇大表現であったろう。そのことは薄々ヴァンさんにもわかる。
チャーリーには、元カノのオリヴィエ救出という目的のほかにもなにやら内心に固めた強い意思があるようにヴァンさんは見抜いていた。そういう感得力はまだ彼女には残っていて、かつての戦士時代ほど研ぎ澄まされたものではないにせよ、相手の虚妄を嗅ぎとる能力がある。
(いずれチャーリーの秘密も、明らかになるときが来るだろうし)
と、ヴァンさんが泰然と構えていられたのは、すくなくともいまはチャーリーとふたりきりの旅だったからだ。同行者があえて隠そうとしているものに触れるのは礼儀に欠けるのだ。
そのチャーリーは、
「まず、ネラルミ公国へ行きましょう」
と、ヴァンさんに告げた。
「あの国の人々は、収穫した穀物や野菜や果物を周辺諸国へ売りに行っているんです。作るひと、売る人と作業分担がきちんとしていて、種目ごとに行商人の管理者がいて……」
チャーリーが強調したのは、まずかれらから情報を仕入れて、諸国の動きと全体像を把握しておいたほうがいいという点だった。
アタラクシア山脈へ向かうには遠回りだったが、すんなりとヴァンさんはうなづいた。
「それがいいわね。ネラルミ公国には、あたしの旧友もいるから。キミが言った、行商人の親分!」
「ほんとですか! お知り合いがいるなら、なおさら好都合じゃないですか?」
「キミもネラルミには訪ねる誰かがいるみたいだけど」
「そうなんです。でも正規のひとじゃないんですけど……」
そこで一度言葉を区切ってから、
「いわば裏稼業のひとなんです」
と、チャーリーはぼそりと言った。どうやらヴァンさんの反応を探っているらしかった。
裏稼業……と一言でいっても、それを意味する内容は幅広い。暗殺、詐欺、あるいは違法麻薬……など、チャーリーはそういうことを示唆しているのかもしれなかった。
けれどヴァンさんは、
「あら、そう」
と、なにかの挨拶のように答えるだけで、一向に突っ込んでこようとはしない。チャーリーはチャーリーで、
「ええ、そうなんです」
と、天気をうかがうように軽い口調で返した……。
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