あの日の彼女

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あの日の彼女

「母さん、それ俺が持つからいいよ」  駅から離れている訳でもないから、新幹線から乗り換えて行こうと思ったのだがいかんせん本数が少ない。そのことを指摘して迎えに来てくれるという両親の言葉に甘え、弥生は息子と新幹線改札からロータリーに出た。 「大丈夫よこれくらい。あら、お土産持ってたかしら」 「俺の鞄に入ってるってば。あ、あの車だろ」  軽く手を挙げて挨拶する息子の目線の先、年老いた両親の姿が見える。  記憶にあるそれより老けたように感じるのは、久しぶりだからだろうか。三人の娘が全員家を出てしまってから、悠々自適の生活を楽しんでいると思っていたけれど、こんなに小さく感じてしまうのなら寂しさもあったのかも知れない。もっと頻繁に帰れば良かったのかも、と思わなくもないけれど、女手ひとつで息子を育てることに一生懸命で余裕がなかった。 「よう来たな。さ、早う車に乗りなぃ」  方言を耳にするのも久方ぶりだ。息子はもちろん、早くに失くした夫も関東の人間だったし弥生も結婚してからは方言を使うことが少なくなった。  のんびりして激しい発音のない、悪く言えば不明瞭な方言を聞くとなんとなくほっとしてしまう。隣の息子は「やっぱりよく聞き取れない」とぼやいているが。 「だんだんね父さん。運転は大丈夫なの?もう年なんだけんできーだけ歩えた方がええよ」  夫や息子にも理解できるよう電話口でもなるべく標準語で話していた弥生だったが、久しぶりの故郷と家族に、つい方言で応えてしまう。 「普段は散歩しちょーけん大丈夫だ。今日はわれらの荷物も多ぇだらぁ思ーてな、久しぶりに車出えたんだ」 「ええけん早う乗りなぃな。お昼ごはんまだだらー。お寿司頼んであーわよ」  寿司、という言葉に息子が反応する。 「おお、寿司。ありがとう婆ちゃん」 「就職祝いだけんね。沢山あーけん好きなだけ食いなぃ」  寿司ひとつで喜ぶ二十二歳もどうなんだ、と思わなくもないけれど、貧乏とまで行かなくとも贅沢な暮らしはさせてあげられなかった。そのことに少しだけ申し訳なさを覚えるけれど、両親も息子も喜んでいるのだから今は暗い顔を見せるべきではないだろう。  トランクに荷物を積み込み、後部席に並んで座るとすぐに車は小さなロータリーを回り、懐かしい自宅へと走っていった。  昨日は長旅の疲れもあったのだろう。  客間を用意して貰ったというのに息子は遅くまで父と飲んでいたようだが、弥生は早々に二階の自室に下がった。彼女が結婚して出ていった二十五年前そのままに残されていた部屋に。  目覚めた弥生はぼんやりした視界で周囲を見渡す。  高校受験、大学受験まで勉強していた机、古臭い木製の本棚には子供の頃に揃えてもらった童話集が無駄に凝った背表紙を並べている。畳敷の和室があの頃は嫌いだったが、こうして年経て振り返ってみると重ねた歴史とは別の落ち着きを感じるのも良いものだと思う。  幼い抵抗心から障子を外して付け替えたカーテンから、薄青い光が透けている。陽はまだ昇っていない時間帯のようだ。  もぞり、とこれもまた懐かしい布団から出ると静かにカーテンを引く。  そこに広がる景色はあの頃と何も変わらない。  物干し竿のある小さな庭、彼女の妹が生まれた時に植えた梅の木、父が片手間に作っていた家庭菜園。  今でも芝生は手入れを怠っていないようだ。芝刈り機なんてものはなく、しゃがみ込んで刈り込み鋏で作業しているのだろう。もう年なのだから無理はしないで欲しいものだ。  庭を囲む生垣はプリペットで、金木犀に似たその香りは嫌いではなかった。そろそろあの甘い香りを振り撒く頃だろう。息子の準備もある、明日には帰らなければならないからその時を楽しめないのは残念だが、考えてみればプリペットの生垣など今の家から駅までの間にだってある。  ニュータウンだから庭向こうに見える道路はいつも静かで、たまに住人の自家用車が走る程度でしか使われていない。こんな朝まだきでは尚更だ。  この季節には珍しく薄靄がかかっている眼下の風景を眺めていた弥生は、ふともう三十年以上前の視界を重ねる。  まだ大人への猶予が残されていたあの頃。  残された息子を育てるために、世俗に塗れてただひたすら懸命に生きてからは思い出すこともなくなっていたが、この家を出るまでは確かに胸の中にあった微かに甘い記憶。  もうはっきりと顔も思い出せなくなっているけれど、清涼な朝の匂いと潮風にも似た湿った朝靄の肌感は今でも思い出すことができる。  ほんの少しだけ目を閉じて考えた彼女は、カーテンを閉めると着替えを詰めたトランクへと足を向けた。  彼女の記憶にある公園は、記憶の中で少しずつ年月を経て行った。  だから久しぶりに足を運んでも、違和感は覚えない。きっと本来記憶のフィルムに写されたそこはもっと真新しく鮮やかな色味を帯びているのだろうけれども。  古さびてしまった遊具、ペンキが剥がれ元の色もわからなくなった鉄柱、ブランコの座面は朽ちかけた木が削げ始めている。そんな様子を見て、彼女は記憶と同じだと感じていた。  公園の匂いもあの頃と同じで。  海の中にいるような静謐と青い影に満ちている。  辛うじて腰掛けることのできるブランコに座り、彼女は遠いあの日ではなく、故郷を離れた日のことを思い出していた。  自分の人生を自分では何ひとつ決めることのできない、子供時代の約束が有効であるなどと思ってはいなかった。  高校に入学してからも地元の大学に通うようになってからも、だから彼女は彼との約束を後生大事に抱えていたわけではない。  それでも、何かの支えになっていたことは確かだった。誰かに必要とされている、誰かに想われている、そんなあやふやな事実だけでも十代の人生を平穏に保つには充分に過ぎたのだ。  だから彼には感謝もしていたし、約束を忘れることもなかった。ただ、信じていなかっただけだ。  それは彼のことなのか、自分のことなのか、それとも十五歳の決心のことなのか。  そう、信じてはいなかった───信じたいと思っても、信じた末に裏切られることを恐れていたと言った方が正確かも知れない。  彼女が約束の日、二十七年前のあの日に公園に足を運んだのは、そんな恐れと期待の複雑な絡み合いによる結果だったのだろう。信じたい、けれど信じきれない、それでも諦めきれないという。  あの日、彼女は心に壁を作って朝まだきの公園で彼を待っていた。  来るはずがない、自分のこれは結婚を前にした最後の決意と思い出の放棄でしかないのだ、と。そう言い聞かせながら早朝のブランコに揺られる。  じっと待つことなどできなかった。  きぃきぃと鳴るブランコを揺らし、頭だけを覗かせた朝陽が作る鉄柱の長い影を見ていた。あの日と違って朝靄もなく、早起きの小鳥が鳴いている。  そんな「違い」ばかりを強調して、果たされない約束への防壁を堅固なものにしようと落ち着きなく視線を動かす。  決して公園の入り口は見ない。きっと彼の姿を見てしまったら、今までの生活もこれからの生活も捨てて奔ってしまいそうだったから。  彼の姿を見つけたくなかった。見つけられなければ、この懐かしく甘い思いにも訣別できると思っていた。  だから彼の代わりに太陽が姿を見せた時も気落ちはしなかった。  ただ、約束を覚えていた自分を誇りたかったし、十年の自分を支える約束をくれた彼への感謝もあった。  その思いをほんの少しだけこの世界に残したいと思った彼女は、足元に視線を這わせると小さな石に目をつけた。  さっぱりとした顔を上げ、まだ起きていないであろう両親の待つ自宅へと戻る。  そうして彼女は、約束との、いや思い出との離別を完全に果たしたのだ。 (そう思いたかったのかも知れない)  年を経て人生の何たるかをそれなりに味わった今なら、何となくあの頃の強がりが愛おしく思える。  少し前までなら、思い出す度にその甘酸っぱさに悶えるような心持ちだったのだろうけれど、そんな恥ずかしい記憶すら今の自分を作るひとつなのだと割り切れるくらいには年をとった。  時代も変わった。  息子が恋人を連れて来たこともあった。  何となくだけれども、昔と今では恋心のあり方も変わったのだろうと思う。  本物かどうかもわからないような、あやふやな恋ともつかないような何かを抱えたまま十年も待つようなことを、今の人たちはしないのだろうな、とも。 (いやだ、年寄りくさいわね)  静かな海の中で、似つかわしくない明るい笑顔を浮かべる。  今朝こうしてここに来たのはなぜだろう。思い出をなぞるためではない。年をとった自分を再認識するためでもない。  きっと、これからの自分を始めるためだ。  夫の忘れ形見である息子は無事に巣立った。  これでひと段落なのではない。  だって、人生はまだこれからなのだから。  思い出は忘れるものではない、続けて重ねて新しくしていくためのものだ。  あの頃の自分があるからこそ、これからの自分がある。  次第に朝靄が晴れていく公園に、雲を透かして朝陽が落ちてくる。  あの頃の彼と彼女はもういない。  少しだけ、少年少女時代に少しだけ重なった彼らの道は完全に分たれたのだ。いつか重なることもあるかも知れないけれど、その時はきっとこうして別々の道を歩んできたことにも笑って、そうしてお互いの人生を語り合えるのだろう。  そう、だから。  自分の人生は、あの頃を積み重ねてこれからも続いて行く。
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