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朝靄の公園
早朝の誰もいない公園。
住宅街にぽつりと緑を見せるそこは、早春にしては珍しく靄に覆われている。
目覚めの早い小鳥の囀りさえなく、静かな海の底に烟っているかのようだった。
「絶対、成功して往んでくーよ」
ぽつり、決意を靄に流すかのように慎一郎が呟いた。
返事はない。ただ、彼の隣のブランコに座っていた彼女が動いたのか、きぃと小さく金具の擦れる音がした。
「工場も忙しえって話だし、きばって技術を身につけら独立だって夢じゃなえ思んだ」
本当にそう思っているのか、それとも少年らしい夢想なのか彼女にはわからなかった。
それも当然だ。十五になったばかりの彼らでは、社会の仕組みも仕事も何もわからない。それでも彼は東京へ行くし、彼女はだからこそ知識を身につけるための高校という猶予期間を与えられた。
猶予を貰った彼女に、彼にかけられる言葉ない。
だから黙って、古びた制服を身につけたままの彼に目を向けた。
「そうだけ……」
そう言いかけたまま、彼は口を閉ざす。
クラスを引っ張って行くようなタイプではなかった。けれど、何となくまとまりがなくなった時には誰かが必ず彼に発言を求め、それがクラス全体の意思となっていく。そんな少年だった。
それは彼のこんな瞬間の表情によく現れていると思う。
瞳にある柔らかい光は常に一歩引いて全体を眺め、けれど日本人にしては彫りが深くすっきりとした鼻梁に続く眉は強く、けして流されるだけの男子ではない。戦後は遠くなったと言うけれど、彼女は───いや彼女だけでなくクラスの皆が、この少年に日本男児を見ていたと思う。
そんな彼も、今だけはどこか小さく見えるのは何故だろう。
朝靄に沈む景色の中だからだろうか。
それとも、これから出ていく故郷への想い故か。
あるいはまた、明日からの新しい生活への不安が、彼ほどの人にもやはりあるのだろうか。
いずれかは判然としなかったけれど、好況に伴う人口増に対応すべく新しく作られたこの街の小さな公園、真新しいけれど少ししかない遊具が薄青い薄明にぼんやりと佇む中にあって、この時間はきっと心の中に残るだろうと思った。
「十年、十年経ったらまたここに往んでく」
隣のブランコに腰掛けたまま、靄の向こうに十年後の自分を見つけたのだろうか。
十年後、彼はどんな青年になっているだろう。自分は大人の女性になれているだろうか。
そんな思いで彼女もまた、彼と同じ方向を見つめた。
「その時は成功して錦を飾れぇようになっちょりてえ。そうだけん」
今度は言葉を留めず。
立ち上がった時にがちゃんと鳴った鎖の音が、朝靄に反響した。
「そうだけん、十年後の今日、また会うてもらえんだらぁか」
どうして、そう言いかけた弥生は口を閉ざす。
こんな朝早くに会う約束をしたこと、十年後に会いたいと言われたこと、同じ級長として一緒にいる時間は長かったけれど今日の今日まで、彼にこんなことを言われると思っていなかった。
淡い恋心のようなものは持っていた。それは年頃の少女らしく。けれどそれだけだった。
大人への猶予をもらった彼女はその先のことを考えていなかったし、だから当然彼とどうなりたいかなんて望んだこともなかった。
けれども。
彼の言葉が嬉しく思えたことも確かだった。
自分だけが特別な存在であると思い込みたい思春期特有の病かも知れない。つまらない、子供じみた見栄と憧憬の成れの果て。それでも今だけは、今はまだ少女なのだから。そう言ってもらえる存在であるという事実に浸っても構わないだろう。
だから彼女は、小さく「うん」とだけ呟く。
その言葉に満足したのか、いつもの柔らかい微笑みを向けた彼は、ゆっくりと朝靄の向こうに消えて行く。
力強く泳ぐ大魚のように見えて、彼女はブランコに腰掛けたまま遠ざかる制服の背中をいつまでも見送っていた。
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