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いつものように最寄駅まで向かって歩いていた。徒歩通勤中のその時は雲一つない快晴で、街路樹の青葉には惜しみなく太陽の日差しが降り注ぎ、初夏の生命力に溢れる清々しい朝だった。
少し高いビルの影を踏んでの信号待ち。"影"に着目していつもの街を観察するとなかなか面白い(時々そういう世界の見方をする癖がついたのは、十年前に付き合っていた彼女と音信不通になってしまって以来のことのように思えて仕方がなかった)。快晴の今日は、隣で信号待ちをする中学生、規則正しく並んだ電柱、そして街路樹、行き交う車たち……それぞれの影がくっきりとして、いつもより二割り増しくらいにイキイキとして見えた。
信号が青になって、ビルの影から離れ歩き出す。
すると、無いのだ……。どこを見回しても自分の影が跡形も無い。俺は太陽の位置を再確認するために空を見上げた。それは確かに燦々とこの身体を照りつけている。それなのに一体どうして……。
まるで自分が自分でなくなってしまうような心地がして、目眩に襲われる。そしてすぐ近くの公園にあるベンチにとりあえず座り込んだ(ちゃんと日陰にあるベンチだ)。まずは落ち着かなければ。
なんとか気を取り直すと会社に電話をして、急な体調不良で休むことを上司に告げる。「自分の影を失くしてしまったので、休ませてください」なんてとても言えない。そんなことを言えば気が狂ったと思われるだけだろう。
さて、どうしたものか……途方に暮れること約三十分。誰もいないはずの公園に『キー……キー……』と音が響き始めたから、顔を上げて辺りの様子を伺うと、なぜか誰も乗っていないブランコが揺れている。
でもよく見ると人型をした黒い影がこいでいるようだった。あれは間違いなく俺自身の影だ。背丈のそれほど高くない細身のシルエット。何より影を失くす人間なんて今この瞬間、この場所に自分しかいないだろう。
俺はとっさに影に近づいていく。すると影はブランコをこぐのをやめて、そそくさと逃げ出した。そして俺は追いかける。
影は俺が見失わない程度の距離をとって逃げているようだった。いったい何が目的でそんなことをしているのかはわからない。どこかに連れて行こうとでもいうのだろうか。
影を追いかけていると、子供の頃影踏みをして遊んだことが思い出される。まさか大人になって、自分自身の影を追いかけることになるなんて。いつのまにか自分自身を取り戻すゲームをしてるような感覚になって、影をひたすら追い続けた。
夕方になってもまだ追いかけていた。
追いつきそうになると必ずどこかに隠れてしまうから、その度に俺はその付近にとどまり辺りを注視する(同時に一休みをする)。すると必ずまた影は現れて俺から逃げようとするのだ。その繰り返し……。
川沿いの遊歩道を駆ける影。
それを追いかける俺。
その川は市内を真っ二つに貫く大きな川で、遊歩道はずっと先まで続いている。
夕日が照らして、角度によっては二人シルエットになっている。でもどちらも影は伸びていない。俺は影を失っていたし、その影もあくまで影でしかなかった。"影の影"、なんてものは存在しないのだ。
そろそろ夕日が沈もうかという頃、ふいにもう一体の影が乱入してきた。それは髪の毛が肩よりも長く伸びた女性のようだった。その二つの影は時々手をつなぎながら遊歩道を駆ける。俺はその様子を微笑ましく思いながら追い続ける。それにしてもこの女性はいったい誰なんだ?
そうこうするうちに二体の影が川沿いに立つうらぶれたアパートに入っていく。そしてある扉の前でピタリと止まったのだ。それは405号室だった。
いつの間にか女性の影は消えていて、俺の影だけが扉の前に立って手招きをしている。女性の影はどうも405号室の扉をすり抜けてその中に入ったようだった。
そして扉の前でついに俺は影に触れ、同化することになる。背後から差し込む夕日に、影が扉と重なる。
やっと影と一つになれたと安堵したその時だった。ガチャリと音を立てて目の前の扉が開き、中から女性が顔を覗かせたのだ。
それはありし日の君だった。
あの頃のまま何も変わらない彼女。
当時付き合っていたが、突然音信不通になってもう十年が経つ。それ以来ずっと追いかけていたその人だった。ここ何年かはもう探すあてもなく途方に暮れていたのだ。心当たりのある連絡先はもうすべてあたり尽くしていた。
「影を追いかけたら、ここに辿りついて……」普通ならわけのわからない俺の第一声を聞いて、君はこう言った。
「私もずっと影を失くしていたの。でもさっき影が突然帰ってきて……。十年ぶりに同化できたみたい。その後玄関の扉の向こうに誰かがいるような気がして、開けてみたらまさかあなたがいるなんて」
「そうか、俺自身の影と一緒に手を繋いでいたあの影は、十年もの間失われていた君自身の影だったんだね。君は影を失くすと同時に俺の前から姿を消してしまった。それでも今お互いの影が、再び俺たちを引き合わせてくれたんだ」
自分自身の影を追いかけることで、ずっと追いかけていた彼女をも掴むことができた。俺はこの再会を決して無駄にはしない。影が導いてくれたことを思うと尚更だった。それはもう一人の俺自身の心の奥底にある思念そのものだったから、失われた彼女の影さえも引き寄せて、彼女の本体にまで導いてくれたんだ。
普段は当たり前のように存在する影には、本体にはない不思議な力が備わっているのかもしれない。
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