旧校舎の歌声

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旧校舎の歌声

 旧校舎に忘れ物なんて、うっかりしていた。それも、大切なものを置き去りにするなんて。私らしくない。  これはきっと、合唱コンクールの練習が始まったせいだ。終了までの二ヶ月を思うと、酷く憂鬱になる。  各教室から、様々な合唱曲が響いている。それらは遠ざかっても尚、心を刺し続けた。放課後練習中の生徒たちは、私が一人旧校舎にいるなんて思ってもいないだろう。  旧校舎は備品倉庫だ。嘗て小中一貫校だった名残で、スペースだけはやたらとある。訪れるとなれば、必要物が生じた時のみだ。  事実私だって、高校進学から一年弱経つが近付いたことすらなかった。午後授業直前、備品を頼まれて取りに来るまでは。  やっぱり、その時に忘れたらしい。三階の大部屋に入って早々、棚の一角に見つけた。  ワイン色のシステム手帳が、待ち草臥れた様子で佇んでいる。年季が入り、所々塗装の剥がれもあるが大事な手帳だ。  赤子を抱きあげるよう、優しく手に取る。安堵に満たされながら踵を返した。  この手帳は、私の“声”だ。話せない私に代わり意思を伝えてくれる。交換可能な中身は、今年で十冊目に達してしまった。  廊下を進んでいると、歌が耳に戻ってきた。新旧の校舎には距離があり、気に留めなければ聞こえないほど小さい。  けれど、心は旋律を嫌がった。もはや条件反射的に、悲しみが流れ込んでくる。 『お前の声と歌い方って気持ち悪いよな!』  何度も聞いた幼い声が、勝手に脳で再生されはじめた。否、実際耳にしたのは二、三度ほどだったか。事実が曖昧になるほどには聞き飽きている。それでも生傷は生まれるのだが。  まずは大好きな歌が歌えなくなった。次第に話すことも出来なくなった。  ただ、今も歌は嫌いではない。正しく表現するなら嫌えなかった。歌えるものなら歌いたいと、何度喉を絞っただろう。  無人を味方に、口を開け合唱に参加してみる。だが、当然発声はされず、心の毛羽立ちが大きくなっただけに終わった。  涙が滲みだす。瞳に溜まって落ちないよう、ぎゅっと目を瞑った。  直後だった。微かな旋律に少女の熱唱が被さる。付近からの大声に、思わず肩が竦んだ。  視線が自然と声へ向く。声はすぐ右の教室から響いており、プレートには音楽室の文字があった。  あ、この曲知ってる。気付いた瞬間、脳が勝手にメロディの先読みを始める。輪唱曲――同じ旋律を、少しずらして追いかけるよう歌っていく曲――として覚えたせいで、自然と音を追ってしまった。  素直に言って、歌唱力は高くない。しかし、それ以上の魅力が歌には宿っていた。死角にあるはずの笑顔が見える、そんな楽しさが旋律のうえ弾んでいた。  切望した自由を前に拒絶が走る。嫉妬と息苦しさに圧迫されながら、一気に旧校舎を抜けた。
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