梅雨時のラーメン

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梅雨時のラーメン

 とうとう降ってきたか。先ほど、スマホでニュースを見た時、関西が梅雨入りしたとあった。今日は雨は降るまいと高を括り、ビニール傘はおろか、折りたたみも持ってきていない。6月の第2水曜日18時、駅の構内は仕事終わりの人間で賑わっている。俺と同様に彼らの多くも、梅雨入りするとは思わず傘を忘れたのか、鞄を傘代わりに衣服を濡らしながら、構内に駆け込んでくる。先ほど中条から、18時15分到着の電車に乗っているとラインがきた。間もなく、来てくれるだろう。  前回、中条と書店に行ってから2週間ほどしか経っていないが、久しぶりに合うような気がする。どんな毎日を過ごしていたのだろうか。この二週間、中条の顔を考えなかった日はない。その顔は二種類、無邪気に笑う中条と、前に別れ際に見せた悲しげな顔だ。  構内の柱にもたれて改札口を眺めていると、電車が着いたのか人が抜けてきているのが見えた。改札の左右に目を動かしていると、ちょうど改札を抜けた中条を見つけた。向こうも俺に気づいたのか、手を振りながら小走りに駆け寄ってきた。 「お待たせしました。雨降ってきましたね」 「こんにちは。梅雨入りしたっていってました」 「そうなんですね……髪伸びましたね、寺城さん」  グッチの眼鏡越しに、俺の頭を中条は物珍しそうに見つめている。前に中条と会うからと、美容院で梳いてはもらったが、短くしたわけではないので、髪は伸ばしっぱなしだ。今では、片目は前髪で隠れ、襟足は軽く肩にかかりそうで、髭でも生やせばプロレスラーに見えなくもない。 「最近、切れてなくて……汚らしいですよね」 「いえ、全然そんなことないです。似合ってますよ」  こんなことならば切っておけばよかったと、後頭部を掻いた。中条は微笑ましげに、俺を見つめている。一つ咳払いをして、中条を見た。 「立ち話も何ですし、行きましょうか?」 「はい。あ、寺城さん傘持ってます?」 「それがないんですよ……」 「私のでよければ、一緒に入りませんか?」  中条の「一緒に入りませんか?」という言い方に、ドキリとした。細い透明なビニール傘を掲げているだけなのに、中条が言うと妙に色気がある。 「あ、いや、大丈夫です俺は。お気持ちだけで」 「えー、もういっぱい降ってますよ、雨。風邪ひいたら元も子もないんで、遠慮しないでください」  外を見ると、さっきまで小雨程度だったのが、勢いよくアスファルトを打ちつけている。確かに、この雨だと傘を差さずに歩くわけにはいかない。 「じゃあ……すいません。傘は俺が持ちます」  中条からビニール傘を受け取り、二人並んで歩き始めた。傘の構造上仕方ないが、二人入ると、どうしても肩と肩が触れ合ってしまう。中条の肌を濡らさないよう、少し傘を傾けた。中条も雨を避けるよう身体を寄せて、俺のTシャツの袖を掴んだ。驚いて顔を見たが、中条は軽く頷いて俯いてしまった。仕方なくそのまま歩いたが、中条の手はTシャツの袖を掴んだままだった。 「すごい雨でしたね」  中条は軽く濡れたストライプのシャツの袖を捲っている。俺もテーブルに備え付けてある紙ナプキンで、眼鏡の水滴を拭った。眼鏡をかけ直して、メニューを中条にも見えるように開いた。 どの店がいいか迷ったが、結局俺の行きつけのラーメン屋にした。ここは大学帰りによく寄っていた店で、ラーメン屋にありがちな、バカでかい声を出す店員がいたり、不愛想なオヤジがやっているような店ではなく、広々とした店内で、女性店員も多い落ち着いた店だ。味も醤油をベースとしており、こってりし過ぎず女性にも食べやすいと評判の店だ。ここでどうかと中条にラインで聞くと、一度行ってみたかった店だと、二つ返事で了承してくれた。 「わあ、どれもおいしそう。寺城さんは、いつもどれ食べてるんですか?」 「俺はいつも『味玉醤油』ってのを、頼んでます」 「あ、これですか。ほんとだ、煮卵が美味しそう。じゃあ、私もこれにします」  店員に片手を上げて、「煮卵醤油」を二つ注文した。中条は、楽しそうにメニューのラーメンを眺めている。グッチの眼鏡をかけ、ストライプ柄のシャツをパンツにインしたコーデの中条は、ベンチャー企業の社員にいそうな雰囲気だ。 「寺城さんの、そのTシャツかっこいですね。どこのショップのですか?」  中条は、ちょうど俺の胸あたりを指さした。グレーの迷彩柄で、ど真ん中に武者風の男がシルバーにプリントされたデザイン。 「ああ、これは魂(スピリット)プロレスという団体の『ラストサムライ』って、プロレスラーのTシャツなんです。だから、ショップじゃなくて、試合会場で買いました」 「え、寺城さんプロレス好きなんですか?意外……」 「まあ……多少は」  目を丸くして中条は、Tシャツと俺を見比べている。高校生の頃にはまって、大学時代は何度か試合会場に足を運んだ。最近は、ネット配信で黒坊主と一緒に熱く観戦している。 「それに前は寺城さん、ジャケット着ていて気づかなかったけど、腕周りとかがっしりされてるんですね」 「いや、そんな大したことないですよ……」 「部活とか、何されてたんですか?」 「一応、中高と柔道部でした」 「えー、うそー。私の中で寺城さんって、文科系で図書委員って勝手にイメージ作り上げていました」  口に手を当てて、中条は面白そうに笑った。まあ、言いたいことは分かる。普段の俺から体育会系、それも柔道部のイメージは湧かないだろう。 「中条さんは、何部だったんですか?」 「私は陸上部でした」 「あー、何となく分かります」  お互いの学生時代の部活談議に花を咲かせていると、店員が注文したラーメンを運んできた。作り立てといった風に、白い湯気がモクモクと立っている。 「わあ、美味しそう……」 「いただきます」  黄色い声を上げながら中条は、スマホでラーメンを撮っている。そんな中条に割り箸を差し出して、レンゲでスープを啜った。醤油と鶏がらが、うまく煮詰められていて胃に沁みる。塩分の摂りすぎだと自覚しているが、毎回飲み干してしまう。 「眼鏡曇ってますよ、寺城さん」  湯気が立つ物を食うと、どうしても眼鏡が曇ってしまう。中条は、ちゃんとグッチの眼鏡を外して食べている。曇った眼鏡を紙ナプキンで拭いて、テーブルの端に置いた。眼鏡のレンズにかかっていた前髪が、さらりと右目に被さった。指で髪をどけると、ちょうど中条と目が合った。曲げた人差し指を口元に当て、じっと俺を見つめていたが、すぐに視線を逸らされ、静かに麺を啜り始めた。店内の熱気と、スープの熱さのせいなのか、中条の白い頬は少し赤い。 「どうですか?味のほうは」 「はい……すごく美味しいです。薄すぎず、辛すぎない程度の出汁がいいですね」  手で口元を隠しながら、中条はこくこくと頷く。ハフハフと冷ましながら、レンゲでスープを吸う姿は、目を細めたくなるような可愛らしさだ。見惚れてしまい、つい箸が止まる。俺の視線に気づいたのか、中条は恥ずかしそうに笑って、俯きがちに食べている。俺も申し訳なく思い、自分のラーメンを食べる作業に集中した。  ラーメンの後でも、やはり女の子は甘い物を食べたくなるのか、中条はデザートの柚子シャーベットを幸せそうに食べている。逆に俺はラーメンを食った後は、なぜかタバコを吸いたくなる。 「一口食べますか?」 「いや、大丈夫っす」  わざわざスプーンに載せて差し出してくれたが、やんわりと断り、烏龍茶を飲んだ。  湯呑に口を付けながら、どう切り出そうかと考えた。前に中条が話すと言っていた弟のことだ。中条が次会った時に話すと言ったのだから、彼女から切り出すのが自然だろう。しかし、今日一緒に食事をしている中条からは、深刻な話をするような様子は感じられない。そのことを中条に限って、忘れているなんてことはないだろうが、少なくとも今日、俺は話を真剣に聞くために来た。 「あの、中条さん……」  美味しく食べているところを、気を悪くさせてしまうのは分かっているが、意を決して切り出した。俺の真剣な顔を見て、中条は何が言いたいのか悟ったのか、口元に人差し指を当てて微笑んだ。 「お店出て、静かな場所で話しましょう」 「分かりました」  俺が頷くのを見て、中条は目を細め、残りのシャーベットを口に入れ「美味しい~」と頬を緩ませた。
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