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涙のわけを知った時
梅雨時の雨上がりの熱気は、なんとも言えない心地悪さがする。支払いを済ませ、店を出ると雨はやんでいたが、雨独特の生臭い匂いは漂っている。人がいるところでは、中条も話しづらいだろうと思い、俺たちは駅に近い公園に立ち寄った。ラッキーなことに、屋根の付いたベンチがあったので、2人でそこに腰かけた。公園のすぐそばに自販機があったので、そこでミルクティーとコーラを買い、ミルクティーを中条に手渡した。
「ありがとうございます」
礼を言った中条は、プルタブを空けて、ミルクティーを一口飲んだ。
「タバコ吸っても大丈夫ですか?」
「あ、はい。寺城さん、喫煙者だったんですね」
俺がタバコを吸うことに少し驚いたようだが、笑って了承してくれた。失礼なのは重々承知の上だが、吸いながらのほうが落ち着いて聞けそうだ。中条に煙が降りかからないように、気を配りながらアメスピに火を点けた。俺が口から吐いた煙を、中条は目じりを上げて見つめている。
「前の話の続きなんですが……」
足を揃え、両手で包み込んだスチール缶を見ながら、中条は話し始めた。俺はアメスピを銜えたまま、静かに頷いた。
「ラインの写真の、私の弟は、私とは3歳離れていて、今年で18になります。本当なら、高校3年生で、来年は進学や就職を迎えていたはずなんです。でも、弟はそれができないんです。生まれつき身体が、特に心臓が弱くて、ずっと入退院を繰り返していて、小中もほとんど通えず、だから高校にも進学しませんでした」
話していて込み上げてくるものがあるのか、中条は持っている缶を、その細い指で強く押している。
「それと、私は中学生の時に母を交通事故で亡くしまして……それ以来、父と弟と3人で暮らしてきました。だから、弟にとって私は姉であり、母のような存在なのかもしれません。少なくとも、私は母親の代わりのようにならなくてはと、振舞ってきました」
知らなかった。中条が母を早くに亡くし、父子家庭で育ってきたとは。そして、中条の弟であるラインのトプ画の青年は、そんな境遇にいたとは。弟のために、母のように振舞ったというが、当時の中条は15かそこらの、思春期の女の子ではないか。そんな身体的にも、精神的にもまだ未熟な娘が、母親の代わりになど当然なれるはずがない。だが、中条のことだから、そうあらねばと常に自分に言い聞かせてきたのだろう。
「幸いにも、父がそれなりの会社に勤めていて、収入も安定していたので、経済的に困ることはありませんでした。でも、父は仕事があるので、弟の面倒はほとんど私が見ていました。弟は優しい子で、病院での出来事や、読んだ本のことを、いつも楽しそうに聞かせてくれました。でも、それは私を少しでも心配させないための、弟なりの気配りなんです……本当は誰よりも辛くて、誰よりも不安な日々をあの子は過ごしているのに……」
中条はもはや我慢ならないといったように、頬から涙を流し、鼻からも透明の液体を流している。俺は尻ポケットからハンカチを取り出し、震える手でそれを拭いた。ハンカチを頬を当てられて、今の自分の顔を、中条は理解したのか力なく笑った。それでも、目から涙は滴っていた。
この娘はどんな思いで生きてきたのだろう。
今どんな気持ちで生きているのだろう。
母親にも甘えることができず。きっと誰にも相談することもなく、相談したとしても、だからといって中条の弟に対する思いや、心細さは晴れることはないだろう。
「だめですよね、私……こんなことくらいで甘えていたら。世の中には、もっと大変で、辛い事情の人もいるのに。でも私、時々何もかもが嫌になるんです……何もかも投げ出したくなって」
目元を擦って、中条は気を落ち着かせるようにミルクティーを飲んだ。そして、顔を上げ、俺を見つめた。
「これまでに、何人かの男性とお付き合いはしましたが、どれも長続きはしませんでした。私が弟のことを心配し過ぎる余り、向こうも重荷に感じて……仕方ないことだとは、分かってるんです……でも私、誰かに側で支えてほしいって、思うことがあるんです……」
何かを訴えるような潤んだ瞳を、中条は弱々しく俺に向けている。中条の言いたいこと、求めていることが分かった。言葉は見つからなかったが、中条の後頭部に腕を回し、俺の胸に引き寄せた。中条は嫌がる素振りも見せずに、俺の胴に腕を回し、胸に顔をうずめた。ただ、静かに中条を抱きしめた。お互いに言葉はないが、胸の中で中条は静かに嗚咽を漏らした。
※
「落ち着きましたか?」
未だ俺の胸の中で、鼻をすすっている中条に問いかけた。不謹慎だが、中条の髪からはボタニカルシャンプーの良い香りがした。俺の問いかけに中条はこくりと頷き、胸から顔を離したが、腕は俺のTシャツを掴んだままだ。
「目、痛くないですか?」
見ているこちらが痛ましく思うほど、中条の目は真っ赤に腫れている。リュックから、携帯用のウェットティッシュを取り出して差し出した。
「すいません……」
ウェットティッシュを1枚受け取り、中条は丁寧に目を拭き始めた。俺は自分の手が震えていることに気がついた。今さっき、この腕で中条を抱きしめたのだ。場面や雰囲気に酔ったり、ましてや打算的な考えがあったわけではない。ただ、身体が勝手に中条を抱き寄せたのだ。未だに胸の中に残る温かさに、心臓がどくどくと跳ねているのが分かる。
「ありがとうございます……落ち着きました」
ウェットティッシュで拭いたため、目元の化粧が落ちたのか、中条の瞳は僅かに小さく感じられた。しかし、ぱっちりとした二重と、綺麗にカールした睫毛のおかげで、可愛らしさは健在だ。中条もそのことに気づいたのか、恥ずかしそうにグッチの眼鏡をかけて誤魔化した。
「お話聞いてくださって、本当にありがとうございます。たまに、どうしても誰かに聞いてほしくなるんです。重たい話で、途中おかしなこと言って、寺城さんには嫌な気にさせちゃったかもしれませんが……」
「いえ、そんなことないです」
嫌な気になどなるはずがない。どんな事情がって、どんな話をしようとも、俺は君の味方でいると決めたんだ。それなのに、俺はろくな言葉もかけてあげられない。歯痒くて仕方がない。できるならば、この娘の苦しみを取り去ってあげたい。
背負ってきたものが違う。俺と、中条とでは。ただ、話を聞いてあげることしかできない。そんなことでは、中条は救われない。俺はなんと無力なんだ。口惜しさに唇を噛んだ。自然と、握った拳にも力が入る。
「今日は本当にありがとうございました。話したのが、寺城さんでよかったです」
まだ、微かに潤んだ瞳で、中条はにっこりと笑った。その健気な姿に、胸が詰まりそうになる。今、俺が中条にできることは一つしかない。
「……中条さん、今日は自宅まで俺に送らせてくれませんか?」
「え……」
不思議そうな中条の目と、真剣な俺の目が交差した。
「夜の街って、ほんと綺麗ですよね」
助手席から中条は、バイパスから見える街並みを、楽しそうに眺めている。自宅まで車で送ると言った時、中条は「そんな悪いです」と遠慮したが、俺が「送らせてくれ」と半ば強引に頼むと、渋々頷いた。別に、中条を乗せて如何わしい場所に、連れて行こうなどとは考えていない。ただ、今日の中条を独りで帰らせたくないだけだ。
俺の角ばった古いレトロなデザイン(悪く言えばぼろい)の軽自動車を見て、中条はどんな反応をするかと、少し心配はしたが、それも杞憂だった。「ルパンに出てきそうですね」と面白がりながら、高めの車高のドアを開いた。パワーウィンドウではなく、窓を手動で開けるのが珍しいのか、中条は何度かくるくると開け閉めしていた。
母親以外の女性、しかも若い娘を助手席に乗せて運転するのは初めてなので、恐る恐るアクセルを踏んだ。幸いにも雨が上がり、交通量も少なく、隣の中条もリラックスしてくれているので、ハンドルを握る力を少し緩めた。ただ、シフトチェンジだけは、いつもより慎重に心がける。
「綺麗です。日中は何とも思わないのですが、夜中になると違った世界に見えますね」
運転の妨げにならない程度に、片目で助手席を見た。窓を半分ほど開けて、中条は夜風に髪を靡かせている。どんどんと後ろに遠ざかっていく建造物の一つ一つを、中条は愛おしそうに見つめている。疲れてしまったのか、車に乗ってから中条は言葉が少ない。そっとしてあげるべきなのかもしれないが、せっかくの二人きりに空間で、無言状態は何かもったいない。
「この景色を、俺もいつか見せてやりたい友人がいるんですよ」
「寺城さんの、お友達?」
風に吹かれる髪を撫でつけていた中条が、運転席の俺を見た。俺はハンドルを握り、前を見据えたまま続けた。
「そいつは俺のことを、いつも見ていてくれて。俺は、いつもそいつに助けられています。口が悪くて、乱暴なやつなんですが、俺にとっては、かけがえのない『友人』なんです」
今頃、部屋で泡を吐きながら、だるそうに水を漂っている、その「友人」を思い浮かべた。そういや、今日も家を出る時、餌を与えるのを忘れたな。きっと、帰ったらあいつから嫌みの一つでも言われるだろう。そんな嫌みすら、今では俺にとっては心地良い。
「いいですね。そういうお友達って。寺城さんのお友達なら、きっといい人なんだろうな……」
俺の横顔を見ながら、中条はしみじみと呟いた。俺がいい人かはともかく、確かにあいつは悪いやつではない。そもそも、人ではないのだが。まさか中条も、俺が飼っている金魚のことを言っているのだとは、微塵も思っていないだろう。もし、その友人が出目金だと知ったら、さすがの中条も、俺のことを変人扱いするだろうか。
ほとんどが大型トラックしか走っていない夜のバイパスは、ついアクセルを強めに踏んでしまう。非力な軽自動車のエンジンに、過給機(ターボ)が奏でる加速音が心地良く車内にこだまする。気づけば、中条の自宅近くの最寄出口が見えてきた。
「自宅は、駅の近くでしたっけ?」
「はい、バイパス降りて、北に行ってもらったら、すぐ見えると思います」
バイパスの出口で一度信号に捕まり、中条の言うように北側に走ると、マンションが立ち並ぶのが見えた。駅の近辺ということもあり、道が細く入り組んでいる。中条の案内がなければ、何度も同じ道を行ったり来たりしていただろう。
中条が暮らすマンションは、ベージュと白を基調とした造りで、エントランスが広々としていた。デザイナーズマンションというやつだろうか、一見して高そうだと分かる。この7階に、中条とその家族が暮らしているらしい。マンションの真ん前の道路に、ハザードを焚いて停車した。
「すいません。わざわざ、送っていただいて」
「いえ、俺がそうしたかっただけですから、気にしないで」
恐縮そうに頭を下げる中条に、首を振りながらバッグを渡した。さすがに時間帯が時間帯だけに、周りに人の姿はない。
「助かりました。じゃあ、寺城さん、気をつけて帰ってくださいね……」
「はい」
ぎこちなく手を振った中条は、背を向けてエントランスに入ろうとした。その小さく、寂しげな背中に、俺は今一度声をかけた。
「中条さん」
「は、はい」
思いのほか大きな声が出てしまった。驚いたのか、中条はびくりと肩を震わせ、振り向いた。すっかり、疲れ切ってしまっている中条の目を、俺は見つめた。
「俺でよければ、いつでも話してください。そんなことでは、何の助けにもならないのは、分かっています。でも、もし話すことで、中条さんが少しでも楽になれるのなら、俺はどんなことにでも耳を傾けます。あなたの味方でいます」
他人のお前が何を言っているんだ。そう思われるかもしれない。しかし、俺が中条に何かできることがあるのなら、それしかないだろう。
俺を見つめていた中条は、唇を噛んで目を逸らした。そして、顔を上げた時には、その目は潤んでいたが、構わずに俺のもとに走り寄ってきた。中条は勢いよく、俺の胸に顔をうずめた。俺は驚きのあまり、ポケットに手を突っ込んだまま立ち尽くしていたが、中条は肩を震わせながら、胸の中で静かに泣いていた。
俺は目を閉じ、中条の頭に顎を乗せる形で、その細い身体を抱きしめた。
俺の左目から出た一筋の涙が、中条の髪に落ちた。
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