悪夢

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悪夢

 キラーハイボールの毒霧(口からウイスキーを噴射)をくらい、危うくフォールを奪われそうになったサムライだったが、何とかカウントツーで身体を跳ね上げる。キラーハイボールのラリアットをうまくかわしたサムライは、その巨体を抱え上げて必殺のセンゴクバスター(ただのブレーンバスター)を放った。背面からマットに叩きつけられたキラーハイボールは、あまりの衝撃の強さにフォールを返せずに、サムライにスリーカウントを取られる形になった。後2回勝てば、今年の魂(スピリット)グランプリでラストサムライが優勝だ。  気づけば、パソコン画面の前で、レフェリーのカウントの動きを真似するかのように、テーブルを叩いていた。 「勝ったのか?サムライは」 「ああ……何とかな」  黒坊主も試合の結果が気になるのか、金魚鉢越しに俺に尋ねた。ペットボトルのスポーツ飲料を一口飲んで、痛む喉をさすりながら、試合の内容を説明してやった。有料会員に登録している俺は、ネット環境さえあれば、試合会場に足を運ばなくても、こうしてパソコンで試合を観ることができる。試合会場で生で観たほうが、プロレスは確実に面白いのだが、今日みたいに風邪をひいている状態では、会場の熱気に耐えられないだろう。 「まだ、喉は痛むか?」 「薬のおかげで、だいぶましになった」  もたれ椅子でぐったりしている俺に、黒坊主は心配そうに声をかけた。一昨日くらいから、どうやら風邪をこじらせたようで、喉が痛むのと、身体中が重い。幸いにも、バイト先がドラッグストアだったので、仕事終わりに風邪薬と栄養ドリンクを買った。今日はバイトがないので、今朝からずっと部屋でぐったりしている。 「季節の変わり目だから、体調崩したのかもな。熱はないのか?」 「さあ……測ってないから分からん」 「測っとけよ、ちゃんと。今からよ」 「お前は、俺のおかん(・・・)か」  頭がボーっとする今では、さすがに黒坊主と言い合う気力も湧かない。言われるがまま重い腰を上げて、体温計を取りに行った。  体温計を脇に指して、虚ろな目でユーチューブを観ていると、ピピピと電子音が鳴った。 「お、何度だ?」 「38度……2分だ」  体温計に表示された数字を、そのまま黒坊主に見せてやった。 「38って、がっつり熱あんじゃねえか。それで、よくプロレス観てられたな」 「観るつっても、パソコンだしな。まあ……確かに頭は重いなって思ったよ」 「ネットなんかやめて寝とけよ。せっかく、今日は休みなんだから」 「そうだな……」  ほんとはもう少し動画を見ていたいが、俺を労わってくれている黒坊主を無下にするのも悪い。パソコンはシャットダウンせず、画面をそのままにして、ベッドに寝転んだ。 「すまん。じゃあ、少し寝させてもらうわ」 「おう。ゆっくり休め」  重い頭で、しばらく寝ころんだまま天井を見つめていたが、自然と瞼が落ちて、そのまま眠りに落ちた。  保冷剤を2つ入れてもらったから、何とか大丈夫だろう。紙袋に入った長方形の箱を、今一度確認した。中にはショートケーキが、2つ入っている。大人好みのシンプルなレアチーズケーキと、もう1つは真っ白いクリームの上に、ルビーのような真っ赤なあまおうが載ったものだ。ケーキの相場はよく分からないが、二つとも千円近くした。  中条が甘い物に。目がないことは知っている。今日は中条と、何か約束をしていたわけではないが、たまたま付近を通りかかったついでに立ち寄った。前に閉店まで店にいることが多いと言っていたので、今日が仕事であれば中条はいるだろう。サプライズというほど大したものではないが、何の前触れもなく、仕事の終わりの中条の前に現れて、ケーキを差し出したら、どんな反応をするだろう。甘い物を食べて、疲れた心と体を少しでも中条が癒してくれるのなら、俺にとっては安い出費だ。  ケーキを食べて、幸せそうに頬を緩ませる中条を想像しながら、例の時計屋に向かった。中条との初めての出会いは、この時計屋だった。初任給で両親に何を贈るか迷っていた時、たまたま立ち寄ったこの店で、店員の中条に腕時計を選んでもらったのだ。店員とただの客、一期一会のそれきりの縁だと思っていたが、その後一緒に食事をしたり、時折連絡を取り合う中になるとは、人生本当に何があるか分からない。  建物の柱から、時計屋の店内を伺うと、中条がカウンターで丁寧に腕時計を拭いている姿が見えた。白いシャツにネームホルダーをぶら下げて。一箇所一箇所をクロスで丁寧に拭っている。仕事をしている中条を見たのは、腕時計を買った時以来だが、改めてその美しさに目を奪われそうになった。外からの視線を感じたのか、中条がふとこちらに顔を向けた。慌てて柱に身体を隠したが、これではまるで変質者(ストーカー)だ。別に店に入っても、中条のことだから嫌な顔はしないだろう。だが、彼女の仕事の邪魔はしたくない。店が閉店まで、まだ1時間ほどあるので、どこかで時間を潰して、また来よう。  シャッターが下りた店の裏口から、グッチの眼鏡かけた中条が同僚らしき30代くらいの女性と、談笑しながら出てくるのが見えた。早く声をかけたいが、楽しそうに話しているところを邪魔するわけにはいかないので、二人が話し終えるのを待った。俺が待っていることなど、当然知らないであろう二人は、話しながら駅に向かって歩き始めたので、慌ててその背中を負った。  駅の構内で同僚の女性と別れた中条は、しきりにスマホを眺めていた。長い時間待った甲斐があったと、ケーキを手渡すべく声をかけようとすると、中条は誰かに手を振り始めた。俺に振ってくれたのかと一瞬訝ったが、中条の視線は俺とは別の方角に向いている。その目線の先を見ると、ノーネクタイで細身の紺のスーツを着た長身の男がいた。すらりと引き締まった体格に、少し色黒の肌。短髪の髪は、ワックスで綺麗に整えられている。世に言う「爽やかイケメン」と呼ばれるような男だ。  中条のサインに気づいた男は、白い歯を見せて笑い、手を振り返した。誰だ、あの男は。驚いたことに、中条はその男に駆け寄って抱き着いた。男も幸せそうな表情で、中条の腰に手を回している。  なぜだ。戸惑いよりも、先に怒りが込み上げてきた。俺は中条の恋人でもなければ、男友達でもないのかもしれない。だが、中条は俺を信頼してくれてか、自分の事情を打ち明けてくれた。それに対して、俺は味方でいると応えた。それで中条と特別な関係になれたなどと、自惚れたことは思ってはいない。だが目の前で、知らない男と抱き着くところを見せられて、平静でいられるほど俺は達観していない。 「中条さん」  逸る気持ちを抑えきれず、名前を叫んでいた。突然、自分の名を大声で呼ばれた中条は、びくりと身体を震わせ、男から慌てて離れた。恐る恐る振り向いた中条は、声の主が俺だと知り、目を見開いて顔を真っ青にした。 「て、寺城さん……どうして?」  なぜお前がここにいるんだ。中条の顔は、そう物語っている。まさか、何の連絡もなしに俺が待っていたなどとは、露ほども思っていなかったのだろう。それは仕方のないことだが、今のは何だ。何で抱き着いたのだ。そもそも、この男は誰だ。 「中条さん……そちらの人は?」 「……」  心の中で落ち着くよう自分に言い聞かせながら、率直に尋ねた。しかし、中条は俺の問いに対して答えることなく、気まずそうに顔を俯かせた。中条を困らせたくないし、傷つけたくはない。だが、どうしても中条の口から説明してほしい。  おそらく、今の俺は睨みつけるような顔つきになっているかもしれない。そんな顔を中条に見せたくはなかった。中条も、俺の目を見ては逸らすばかりで、なかなか口を開こうとしない。人で雑然とする駅の中で、俺たちの立つ場所だけ、沈黙が支配している。 「彼女は、私の恋人です」  沈黙を破るように口を開いたのは、中条の抱き着いたスーツの男だった。中条を庇うかのように、男は俺の前に立ちはだかった。今、こいつは何と言った。確かに、「恋人」と言ったよな。 「恋人って……」 「そうです。僕と絢さんは、正式にお付き合いしています。寺城さんですよね?絢さんから、お話は伺っています」 「お付き合い」というフレーズに、鈍器で殴られたような衝撃を受けた。自分の額に汗が浮かんできているのが分かる。しかも、男は中条を下の名で「絢さん」と呼んでいる。俺は中条のことを、苗字以外で呼んだことはない。中条のことを下の名で呼べる男に、嫉妬と怒りが入り混じったものを覚えた。 「中条さん……この人の言っていることは、本当ですか?」  もう感情を剥きだしたように、中条に問うた。頼むから、嘘だと言ってほしい。歯を食いしばりながら、祈るような気持ちで中条を見つめた。ただ、首を横に振ってくれる。それだけでいい。  しかし、俺の期待を裏切るかのように、中条は首を縦に振った。ごめんなさい。そう言いたいかのように、中条の目は潤んでいる。膝から崩れ落ちるシーンをドラマで見かけるが、実際はそうはならない。ただ、頭が真っ白になり、何も考えられない。 「絢さんは、寺城さんのことで心を痛めていました。自分のために、よくしてくださったって。だから、僕と付き合うにあたって、寺城さんにどう説明し、なんとお詫びすればよいかと。優しい絢さんは、ずっと悩んでいました」  すました顔で、男は俺の傷口を抉るような言葉を次々と吐いてくる。俺は焦点が定まらず、男と中条を交互に見返すばかりだ。 「だから、寺城さん、お願いします……もう、僕と絢さんの前に現れないでください」 「てめえ……」  男が頭を下げるよりも早く、その胸倉を掴んでいた。こう見えて柔道二段だ。その気になれば、絞め落とすことだってできるだろう。だが、まさか部活動で得たものを、こんな時に発揮しなくてはならないとは。憎悪の限りに睨みつけるが、胸倉を掴まれていても男は、形の良い奥二重で俺を憐れむように見つめている。その視線に臆するかのように、胸倉を掴む手の力も緩んだ。 「やめてください。寺城さん」  男から俺を引き剥がすかのように、中条は俺の手を掴んだ。その華奢な身体からは想像できないほどの力が、俺の手首に込められているのが分かる。それよりも、中条は泣いていた。弟のことを話してくれた時のように、中条は涙を流しながら、俺の腕を掴んでいた。 「中条……さん」  中条の顔を見て我に返り、男から手を離した。男は何事もなかったかのように、外れたシャツのボタンを留めた。そして、中条は男を庇うかのように、俺の前に立ちはだかった。 「ごめんなさい……寺城さん。悪いのは私なんです。だから、この人を傷つけないで」  目から涙を流しながら、俺を見据えている。もはや、中条には、俺は自分の恋人を傷つける敵としか映ってないのかもしれない。 「いつから……ですか?その人とは。俺と出会った後ですか?」 「はい……そうです」  正直、自分が今どんな顔をしていて、どんな気持ちなのか分からない。ただ、唯一の灯りであった一本の燐(マッ)寸(チ)が、今にも消えようとしている。  なぜだ。なぜこうなってしまうんだ。 「寺城さん。私は寺城さんではなく、この人を選びました……だから、さようなら」  全てを断ち切るかのように中条は言った。その目は、俺が知っている中条ではなかった。  燐寸の灯が消し去られ、暗闇の中に落とし込まれたように、今度こそ膝から崩れ落ちた。そして、俺は悲鳴でも叫びでもない声を上げた。  なんでだよ……なんで……なんで俺じゃだめなんだ。 目を開けると、そこには埃被った照明の豆電球が、ぼんやりと灯っていた。長年使用して硬くなったマットレスから、寝かされているのは自分のベッドだと分かる。誰か運んでくれたのか。着ているTシャツの背中は、不快なほど汗で濡れている。 「大丈夫か?」  聞き覚えのある低い声が、耳をかすめた。俺はどれだけ、こいつの声に助けられたろう。思えば、黒坊主はいつも俺の味方だった。今なら、傷ついた俺を慰めてくれるだろうか。 「大丈夫だ。誰か俺を運んでくれたのか?」  枕元にあった飲みかけのペットボトルの水を飲んで、水分の抜けた身体を潤した。ベッドで上半身だけを起こした俺を、黒坊主がいつもの定位置から、ゆらゆらと見つめている。 「運んだ?なんのことだよ。お前ずっと寝てたぞ」 「そんな……俺は確かに、あの時気を失って」 「寝ぼけてんのか?普通に眠っただけだろ」  必死に説明しようとするが、うまい言葉が見つからない。そんな俺を、黒坊主は面白そうに見ている。だが、少しも面白くなどない。俺は中条に、中条に拒絶されたのだ。 「時計見てみろよ。お前が寝て三時間くらいしか経ってないぜ?」  黒坊主に言われ、壁の時計を見ると、針は20時を指していた。中条に会った時も、確か同じような時間帯だった。まさか、丸一日も眠っていたのか。念のためスマホを確認したが、驚きのあまり落としそうになった。画面の日付と曜日が、中条と会った日より前だったのだ。日本製の最新機種のスマホが、そう簡単に壊れるはずはない。それに、今俺が着ているTシャツも、あの時とは違う。 まさか、そんな。 「そうか……夢、か」  起き上がり、汗で濡れたTシャツを脱ぎ捨てた。リュックからボディシートを取り出して、身体を拭いた。 「夢がどうした?」 「ああ……いや、何でもない」 「ちょっと水を取りに行ってくる」  頭は重いが、少しは寝たおかげで、身体はだいぶ楽になった。あんな夢を見なければ、もっとぐっすり眠れただろうに。 「本当にお前、大丈夫か?」  よろよろ歩く俺を、黒坊主は未だ心配そうな目で見ている。 「どうってことないさ。こんなもん」  そう、たかが夢だ。それも、クソしょうもない内容の。気にするだけ無駄だ。
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