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一時の幸せ
「ら、しゃっせー」
お客さんが近くを通る時、最早どこの国の言語が分からない音程で挨拶をする。世の中には、客が目の前にいても一言も発さない店員もいるので、それよりはましだろう。仕事終わりの来店ラッシュを終えた19時代の店内は、客数も落ち着いて閑散としている。
今俺がやっている作業は、「見切りコーナー」という、棚落ちした商品が集められている場所で、割引シールを貼る仕事である。訳アリ品などではなく、新品の商品が定価より安く買えるので、意外と人気のコーナーである。
「エプロン姿、可愛いですね」
「いらっしゃいま……せ、あ……」
俺も何か買って帰ろうか。シールを貼りながら、商品を物色していると、背中に聞き覚えのある声がかかった。邪魔になったかと思い、振り向くと意外な顔が目に入り、持っていたシールを落としてしまった。
「な、中条さん……どうして?」
「落ちましたよ。今日、出勤やったんですね」
拾ったシールを手渡してくれた中条は、髪を一つに結んで、身体のラインが綺麗に出たポロシャツと、トレーニングパンツ姿という、珍しくスポーティな格好だ。確か学生時代は陸上部だったと言っていたな。こういう恰好も似合っているなと見つめていると、視線に気づいたのか、中条は少し恥ずかしそうに笑った。
「あ、気になりました?実は私、この近くのジムに通ってるんですよ。最近できたの知りませんか?」
「ああ、そういえばチラシで見ました。こっちには電車で?」
「いや、荷物あるんで、車で行ってるんですよ」
そう言いながら、中条は鍵の束をかざす。サソリのエンブレムのスマートキー、確か「アバルト」だったか。何にせよ中条が乗るには意外な車種だ。
「寺城さんも、ジム入会しませんか?会費もお手頃ですよ」
「いやあ……俺はそういうのガラじゃないですし」
「何ですかガラって。寺城さん、スタイルは悪くないんだから、鍛えたら絶対かっこよくなりますよ」
「かっこよくなりますよ」という言葉に、一瞬心がぐらついた。中条にそう見てもらえるなら、月数千円程度の会費なら、惜しむ必要はないかもしれない。
「考えときます。でも……今日、俺仕事だって、よく分かりましたね」
「寺城さんの車目立つから、一発で分かりました。あー今日いるなって」
中条は笑いながら駐車場の俺の車を指さす。確かに、一度見たら覚えやすい車であることは間違いない。
「ところで、ここにあるのって、みんな割引のなんですか?」
「あ、はい。表示価格から、さらに何割引きかになります」
「へーすごい。いろんなのあるんですね」
俺が割引シールを貼る横で、中条は棚落ち商品を物珍しそうに物色し始める。このコーナーには、雑貨や食品から、化粧水やファンデーションなどのコスメまで様々なものが集められる。
アイライナーや調味料を手に取る中条を横目に、黙々とシールを貼っていく。シャワーを浴びた後なのか、中条からはボディーソープか、ボディミストのいい香りがする。ほのかに漂うアップルの香りに鼻孔をくすぐられるといると、従業員呼び出しのベルが鳴った。
このベルが鳴る時は大概レジが込んで、応援を呼ぶサインだ。空気を読まないベルに、舌打ちしたくなったが、中条がいる手前堪えた。
「ちょっと、レジ行ってきます」
「はーい。頑張ってくださいね」
一声かけてレジに向かうと、中条が化粧品コーナーに向かうのが見えた。カゴに商品が入っているので、お気に召す物が見つかったようだ。
「245円のお返しになります。どうも、ありがとうございましたー」
感情の籠っているとは言い難い、機械的なフレーズで客を流す。レジは一人客が並ぶと、なぜか次々と客が並び始め、気づけば行列ができる。列の最後尾に目をやると、微笑みながら会計を待つ中条と目が合った。
ニコっと僅かに口元を緩めた中条に、ドキリとしたが、すぐに目をそらしてレジの操作に集中した。こんなことでミスをして、中条にみっともない姿を見せたくない。
何とか俺のレジに来てくれないだろうか。客の列を観察しながら、レジの速さを調節する。
「お待ちの方、こちらどうぞお」
そんな努力も空しく、隣のレジのスタッフが会計待ちしている中条を呼んだ。中条は一瞬、俺の方を見たが、すぐに呼ばれたレジに行って会計をし始めた。中条を最後に、列の行列は止んだが、なぜか寂しい気持ちだけが残った。
中条のいるレジをちらりと見ると、化粧品が入った紙袋を受け取り、電子マネーで決済している中条が目に入った。本来なら会う約束もしてなかったが、わざわざ立ち寄ってくれたのだ。それだけでも、ラッキーじゃないか。
自分に言い聞かせるように、溜め息をついて、作業用の手袋をはめた。
「ありがとうございます」
レジを打ってくれた店員に丁寧に礼を言った中条は、そのまま店を出るかと思ったが、もう一度俺の方を振り返った。
へへと白い歯を見せ、細く綺麗な手を軽く俺に振ってくれた。
気づけば、俺も手袋をはめた手で振り返していた。
※
「おい、おめえ、濁り過ぎだ」
「え、マジで?」
新しい砂利を金魚鉢に入れていると、いきなり黒坊主に怒鳴りつけられた。黒坊主は水を張ったバケツの中を、すいすいと泳ぎ回っている。
「マジでじゃないだろ……濁りが落ちるまで、しっかり洗ってくれよな」
「それくらいじゃ死なんだろ?お前」
「普通に死ぬわ」
黒坊主が指摘したように、新品の砂利からは、濁りが出る。それが水に混ざると、金魚などの観賞魚にとっては有害となる。黒坊主が怒るのも、もっともだ。もう一度、砂利をタライに移して水で洗い始める。
「それにしても、たまには外の空気も悪くないな」
水中から空を見上げる黒坊主が、しみじみと呟いた。こいつに外(・)の(・)世界(・・)を見せてやれるのは、水替えの時だけだ。それも週1回の。後は金魚鉢越しから見える、俺の部屋だけだ。
外の世界が見れる水替えの時は、黒坊主はいつも楽しそうにしている。俺の家族がいるため、普段外では話しかけてこない。だが、今日は母親も出かけて、家にいるのは俺だけなので、遠慮なく話しかけてくる。
「前から思ってたが、外の世界を泳ぎたくはないのか?」
「いや、ぜんぜん」
即答されたので、ずっこけそうになった。こういう時は、ノスタルジックな雰囲気で、シリアスに答えてくれると思ったのだが、こいつにそんな世界観は似合わないか。
「ぜんぜんって……川に行けば広々としてるし、いろんな種類の魚がいて、お友達に会えるんじゃないのか?」
「川に友達なんていねえよ。それに、鯉やらナマズやら、俺を餌としか認識しねえような輩も、うようよいるしよ。それに、川で出目金が泳いで、絵(・)になるか?」
「いや……確かにならんな」
黒坊主のいう通り、フナやメダカはともかく、黒い出目金が川で泳いでる場面を見たことはない。魚の世界はよく知らないが、品種改良された金魚は、逆に自然の水場は合わないのかもしれない。
「だろ?俺みたいな出目金や、金魚は金魚鉢や水槽でこそ、存在感が発揮できる。いわば、モデルみたいなもんよ」
「その例えは、よく分からんわ」
本人が興味ないのなら、それはそれでいいか。別に黒坊主を自然に放とうとは考えていない。ただ、広い世界を見たくはないのだろうか。たまに、そう思う時がある。
「昨日、店に中条が来てくれたよ」
「いきなり、中条かよ……」
「どうした?」
「別に……わざわざ、お前に会いに来てくれたのか?」
「いや、近くのジムに通ってるらしい。俺の車が見えたから、寄ってみたらしい」
新しい水を張った金魚鉢に、小網で黒坊主を丁寧に移してやる。綺麗になった自室が快適なのか、黒坊主は鉢の中をすいすいと周り始めた。俺も黒坊主の隣(・)で、アメスピを咥えて火を点けた。
口から吐き出した煙が、晴天に吸い込まれていく。煙が空に昇っていく様を、黒坊主は水中から見上げている。
「何か話したのか?中条とは」
「ジムに入会しないかってよ。寺城さんも、鍛えたらかっこよくなりますよ、だって」
昨日の店でのやり取りを思い出す。まさかの、中条来店というサプライズは、給料日より嬉しかった。
「じゃあ、通うしかないじゃないか。中条にかっこいいって思ってもらえるんだぜ?」
「まあ、そうなんだが……金がなあ」
「お前の趣味って読書やプロレスくらいで、他に金かからんだろう?酒やタバコに消えた金を、ジムに回せばいいじゃねえか。そっちの方が、意義のある投資だ」
黒坊主の言う通り、タバコや酒に金を浪費するくらいなら、ジムなどのフィットネスに使うほうが、いい自己投資かもしれない。今の俺には、それなり(・・・・)に(・)時間もあることだし、思い切って肉体改造も悪くない。
「お前、仕事がドラッグストアなら、何か買って、中条にあげたらどうだ?」
「何かって」
「若い女の好みはよく分からんが、化粧品とかサプリメントとかの美容グッズあげたら、喜ぶんじゃないか?」
「あー……確かにいいかもなあ」
ジムに通うくらいだから、中条は美意識の高い方だろう。今度、社割で何か買って、プレゼントしようか。
「お前、たまにはいいこと言うな」
吸っていたアメスピを、水道で火を消して捨てた。固くなった身体を、ストレッチしてほぐす。
「たまにはってなんだよ。おい、お前どこ行くんだよ?」
「自販機にコーヒー買いに行ってくるよ」
「俺のも頼むわ」
「お前、飲めんだろ」
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