成子、東京へ

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成子、東京へ

 家族というものに幻想を抱いている者が多過ぎる。全く愚か者ばかりだ。そういう者は大抵、家族を持つことを幸せな人生への登竜門のように考えている。  だが結婚というものは人間が種族を後世に残して行くため、子孫を作り育てていくための効率の良いシステム以外の何ものでもない。そんな事実に気付いていないのか、わざと目を逸らしているのか、結婚相手に異常な拘りを持つ者が多く存在する。  拘泥は時に、本人の前に広がる現実を百八十度変えてしまう。目の前にいるサヤカとユウコという女たちもそうだ。この女たちは結婚したと思い込んでいる一人の男を取り合って、お互いに暴力を振るっている。  彼女たちの見た目は悲惨だ。元々、クラスのマドンナと言われていた二人の現在は、髪の毛はストレスで所々抜け落ち、顔は灰色に変色して岩石のようにボコボコである。  昔の面影は微塵もない。唇は切れて血が止まらない。歯は、お互いに抜き合って僅かにしか残っておらず、どちらもまともに喋れない。体も原型を留めていないほど傷だらけだ。  特に陰部は、お互いにスタンガンを当て合ったり刃物で潰し合ったりしたため、グチャグチャにかき混ぜたグラタンみたいになっている。体中の皮膚も痣や切り傷が消えなくなり、鮫肌のようになっていた。  成子は目の前で起きている惨劇を楽しむ程の余裕があった。彼女たちが取り合っている男は、紛れもなく自分の夫だからだ。  体内に優越感が満たされて幸せな気分だ。同時に体の中には腐敗臭のするガスも充満して、膨満感と嘔吐感で一杯になっている気もする。気持ち悪さで頭が虚ろになり、逆に気分良くなっているのだ。  サヤカが自らの犬歯をユウコの頬に突き立て、そのまま彼女の肉を噛み千切った。ユウコの口から、ビィビィ、という不協和音のような叫び声が漏れ出た。頬のギザギザの傷からフローリングの床に赤黒い血液がこぼれ落ちた。  成子の夫は彼女たちの様子を見て、串に刺さった焼き鳥のレバーを食べながら缶ビールを飲んでいた。こういう時でも冷静な彼が好きだ。  夫の言うことに従っていれば間違いがない。彼はとても頭が良いからだ。昔彼が言っていたことを思い出す。 「成子さん。自分は今、幸せだと思いますか。ええ、そうでしょうね、幸せでしょうね。では、どうして自分が幸せなのだと思いますか。それはですね、あなたの周囲に自分よりも不幸な人間がたくさんいるからなんですよ。  サヤカさんやユウコさんがいるからなのです。日本人という存在は周囲との調和を重んじるため、四六時中周囲にアンテナを張って生きている生物なのです。他人の観察をすることはとても労力のかかる行為です。  そんなことをずっとやっていたら疲弊してしまいます。だが、周囲に自分よりも不幸な人間しかいなかった場合はどうでしょうか?   成子さんからして見れば調和が取れているように見えるでしょう。だからストレスが比較的かからないのです。サヤカさんとユウコさんがいがみ合っている間は、成子さんが気に病むことはないですからね」  梅雨の日の石神井公園を散歩している時に彼から言われた言葉だ。この時、自分が幸せ者なのだということを自覚した。自分はサヤカやユウコほど醜くない。そんな事実が彼女に多幸感を授けた。
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