交錯する女たちの負の感情、底の底へ

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「え、それは、ちょっと」  彼女は自分の命が狙われていることを知らないからか、暢気にためらっている。清江はアンジェラに助け船を求めているようで、彼女の顔を見詰めていた。 「アンジェラさんに聞いてるんじゃなくて、清江さんに聞いているの」  はっきり言ってやって逃げ道を封じた。 「うーん」  なぜ自分がここまで酷い目に遭っていながら逃げることに躊躇するのか分からない。自分なら何が何でも逃げるだろう。彩花の顔を思い出して体の奥底から力と勇気を振り絞ってこの部屋から飛び出すだろう。 「うーん、じゃないのよ。今日この場で誓ってもらうから」 「ええ、もう由樹さんを襲わせません」  何を頓珍漢なことを言っているのか。苛立ちが爆発寸前までになった。懸命に声の大きさを抑えて言った。 「そのことじゃないでしょ。この部屋から三人で脱することでしょ」  あと少しで声を荒らげそうだ。清江は黙りこくって、首を左右にゆったり振っていた。 「何か言ってよ」  まだ旦那への殺意を捨てていないのか、と気が付いた。浩司が殺される現場を見て、まだ憎しみを消すことができないとなれば相当な怒りを抱いているのだろうか。 「今日はね、謝ることが、もちろん一番の目的だったんだけどさ。由樹さんに、私たちの計画に、しっかり向き合ってほしいって、お願いしようとも、考えていたの」  急に何を言っているのか。深夜の静けさの密度と重量が気持ち悪い。自分の激しくなる鼓動の音がはっきり聞こえる。清江は自分のことしか考えていないのだろう。だから平気で由樹を悲惨な現場に引き摺り込むような発言できるのだろう。 「嫌に決まっているでしょ。清江さん、この前の明美さんの旦那さんの死に様見たでしょ。貴方も酷い目に遭っているじゃないの。普通、もう手を引こうってなるでしょ。それなのに、どうして心変わりしないの。貴方、人じゃないわよ」  小さい声を出すことを意識しながらも、語気を強めた。これくらい言わないと清江は変わらないだろう。彼女のためでもある。殺してからじゃ遅い。 「うん、そうなんだけどさ。由樹さんの、言っていることも、分かるんだけどさ」  下唇を前歯で噛んでいる。何かを隠しており、言おうか言うまいか迷っているのか。 「何か隠しているでしょ」 「いや、別に、隠していることなんか、ないけどさ」 「人に頼み事だけしといてさ、自分にとって都合の悪いことは隠し通そうなんて虫が良すぎるわ」  清江は頭を掻きむしってから、荒い深呼吸を繰り返した。喋るための心の準備をしているように見えた。由樹は黙って彼女の準備を待った。アンジェラの方を見ると、彼女はただ下を向いているだけだ。アンジェラが何を考えているのかは相変わらず読めない。 「由樹さん。私のことを、喋ったら、力を貸してくれるわよね」  清江はタダで痛手を負いたくないようだ。 「そんなのは聞いてから決めます。聞く前からそんな決断する訳ないでしょ。私だって慎重なんだから」  清江は再び口を閉じた。良い加減にしてほしかった。どこまで我儘な婆さんなんだ、と不意に殺したくなっていた。  随分と長い間沈黙が続いた。夜明けが近付いて来たのか、外から新聞配達のバイクの音が聞こえる。口火を切ったのはアンジェラだった。 「清江さん、何があったか喋った方が良いです」  アンジェラに促された清江は、 「貴方に言われなくても喋るって」  と無意味に吠えた。由樹は今だ、と見て尋ねた。 「では、隠していることを話して下さい」  清江から唾を飲んだ音が聞こえた。
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