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電話を切った。新しく買ったスマホをポケットにしまってホテル内の食堂に向かった。食事を終えてから大浴場に入って体を流した。夜の十時には眠った。味気のない生活だが耐える価値がある。この生活を抜けた先に確実に優しい日常が待っている。耳栓をして布団に包まった。早く三人で暮らしたい。
スマホでカレンダーアプリを開いた。彩花の誕生日はとっくに過ぎていた。今年はどんな誕生日だったのだろう、と心配になった。隆広は誕生日プレゼントを買ってあげたのだろうが、ご馳走はどうしたのか気になった。
翌日の夜の六時、そろそろ隆広から電話が来る時間なのだが一切連絡が来なかった。毎日来ていた連絡が来なくなると心配になる。今朝部屋に戻った時、確かに彼は寝室で眠っていた。彩花を起こす時に見た。隆広もいつもと変わらない日常が始まったはずだ。
由樹の脳裡には常に成子の真っ白なニンマリ顔が浮かんでいる。隆広の身に何かあったのではないか。嫌な予感が血液に混じって体中をめぐる。
緊急事態かもしれないと思って外に出た。スマホと財布をトートバッグに入れて自宅に向かうことにした。
カプセルホテルがある雑居ビルから外の繁華街に出た。冬にもかかわらず熱気と湿度を多く含んだ夜の空気が由樹の顔にまとわり付いた。カラオケ店や居酒屋、パチンコ店、ファミレスが立ち並び煌々とした照明を発している。
人が多くて人いきれの臭いで空気が臭い。繁華街の通りの先に駅がある。早く行かなければ。常にスマホに着信が来ないか気にしながら駅へと駆け足で向かった。
自宅の最寄り駅に到着した。時刻は夜の七時半前。相変わらず隆広からの連絡はない。どうか自宅にいてくれ。ただの連絡忘れであってほしい。
見馴れた商店街を進む。小さな定食屋や焼き鳥屋、居酒屋からは沢山の地元客の声が聞こえて来る。八百屋や魚屋には仕事帰りのコート姿の客が多く入っていた。緩やかな坂道を上る。外灯の数が少ない。以前成子が隠れていた電柱の傍を通る時は警戒して足音を立てずに駆け抜けた。誰もいなかった。
自宅のアパートに到着した。思わず足が止まった。見馴れた人間たちの姿を目撃した。愕然として、アパートの前のアスファルトの上に尻餅を着いた。やはり隆広の連絡忘れではなさそうだ。
「あら、由樹さんじゃないの」
こちらに近付いて来る丸々と太った人の黒い影。由樹の近くに立っている外灯が人影の顔を照らした。成子のニタニタ顔。背後にも誰かいる。明美が彩花に首輪を付けてリードを握っていた。彩花、と叫びたかったがショックが餅のように喉に詰まって声が上手く出て来ない。
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