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今回の逃亡を機に隆広への負の感情を与える行動をし始めたらどうしよう、とも悩み始めた。
自分の行動を律することには自信があったが、隆広に対してだけは自信がなかった。幾ら抑え込もうとしても見下していることがバレる気がした。
だが、二度と食事に誘われなくなるならバレても良いと思ってしまう自分もいる。言葉の端から滲み出た嫌味を隠さずに突き付けてやろうではないか、と血迷うこともあった。
それはだめだ、と自分に言い聞かせた。隆広は喫茶店で働いて長い。バイト先で居辛くなるのは嫌だ。由樹は自室のベッドに横たわりながら、
「どうしよ」
と、天井を見ながら呟いて、今後の隆広に対する姿勢を決めかねていた。
気付けばずっと隆広のことを考えていた。忘れようとして布団を顔に被せた。だが食事に誘って来た彼の不安げな顔の忘却はできなかった。
次にバイト先に行った時、隆広も出勤していた。キッチンで食材の仕込みをしており、包丁を忙しなく動かしていた。おはようございます、とだけ声をかけてバックルームへ向かった。
由樹が鞄から制服を取り出してトイレで着替えようとすると、由樹ちゃん、と声をかけられた。
バックルームの扉を開けて、隆広は部屋の外から由樹に声をかけてきた。何だか憐れだったが可愛くも見えた。部屋で二人きりにならないように三十歳の男が気を使っていることが妙に気にかかった。
「どうしたんですか」
「この前はごめんなさい」
小さな声で謝罪をしてきた。キッチンにいる社員の人に聞かれたくなかったのだろうか。
「大丈夫ですよ」
本当にもう大丈夫だった。隆広が今日までずっと気にしていたのかと考えると、自分の悩みがちっぽけに感じられた。
「ありがとう。そう言ってくれると嬉しいです」
離れて立っている二人は笑い合った。二週間後、隆広と由樹は食事に行った。秋の後半の寒い日で、しゃぶしゃぶを食べに行った。隆広の奢りだったが、牛肉だけでなく廉価の豚肉も注文させられた。だがそれも後々、なぜか良い思い出になった。何となく良かったと思うだけで何が印象に残っているとかはない。
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