最後の人

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 肇(はじめ)は山道を走っていた。次の町まではまだ遠い。どこまでも上り坂が続いているように見える。  ここはずっと昔からある峠道で、無人の山林が続く。そして、いくつものつづら折りが続く。今ではトンネル1本で超える事ができる峠道だが、昔はこんなに厳しい山道を通っていた。 「峠道はまだまだ続くのか。気を付けて進まないと」  道のアスファルトの状態は良くない。ここを通っている車はあまりない。どの車も長いトンネルでこの峠を越えているようだ。昔はどれだけの人々が行き交ったのだろう。想像できない。 「またつづら折りか」  もう何度のヘアピンカーブを曲がったのだろう。肇はため息をついた。まだ峠の頂上は見えない。まだまだ続きそうだ。だが、たどり着いた時の達成感は大きいだろうな。 「疲れたな。少し休もう」  肇は道路が少し広くなっている所で外に出た。運転してばかりで疲れた。少し休もう。辺りはとても静かで、鳥のさえずりしか聞こえない。昔から誰も住んでいないようで、目の前には民家の跡すら見当たらない。あるのは木々だけだ。 「まだまだ次の集落は遠いのか。道の駅はまだまだ先だな」  道の駅はこの峠を越えた場所にある。峠の向こうにあって、まだまだ全く見えない。  肇は後ろを向いた。よく見ると、そこには屋根がある。そこにはないと思ったのに。まさか、こんな山奥にまだ人がいたとは。 「あれ? 家?」  肇は屋根に向かって歩き出した。屋根に続く小道がある。ここを進んでいけば、家にたどり着けるのかな? 「ここって、人が住んでんのかな?」  小道を進んでいくと、その屋根がある家にたどり着いた。やはりここに家があるようだ。でも、こんな山奥に、誰が住んでいるんだろう。 「誰かな?」  その声に気付き、肇は振り向いた。そこには老人、長作(ちょうさく)が立っている。この家の住人のようだ。 「あっ、ごめんなさい。こんな所に1件だけあるので気になりまして」 「そりゃそうだな。この集落は私の1件だけになってしもうたからのぉ。昔はもっといたんじゃが」  ここには昔、峠という集落があって、江戸時代から茶屋があったりして賑わっていたそうだ。だが、次第に若い者はこの集落を出て行き、今では長作だけが住む集落になってしまった。 「そうなんですか」  肇は辺りを見渡した。どこにも家が見当たらないが、昔はもっとあって、もっと賑わっていたのだろう。だけど、今の景色から、それを推測する事は出来ない。峠はこの家を除いて、元の雑木林に戻ろうとしているようだ。 「私には子供が何人もいたんですが、10年ぐらい前からここに全く帰ってこなくなりまして」  長作には何人もの子供がいて、とても賑やかな家庭だった。だが、みんな都会へと出て行き、1人で暮らすのがほとんどになっていた。大型連休になると、彼らが戻ってきて、元の賑やかさを取り戻したという。  だが、彼らは次第に帰らなくなった。仕事が忙しくなり、妻や子供たちといる時間がいいと思い始めてきたからだろう。 「そうですか」  肇はその話に聞き入っていた。また会えるといいな。いや、また里帰りしてほしいな。 「息子は今、どうしているんでしょうか?」  長作は息子が心配だ。今頃、頑張って仕事をしているんだろうか? 電話でもいいからその話を聞きたい。 「心配なんですか?」 「はい。また会いたいんですけど」  長作は子供たちと過ごした日々を思い出した。思い出すと、今でも泣きそうになる。  それは40年近く前の事だ。峠は賑わっていた。険しい峠の中の集落だったけど、ここには人々の温もりがあって、みんながまるで家族のように暮らしていた。 「ただいまー」  長男の一郎が帰ってきた。一郎は今年から東京で働いている。家には3男2女がいて、彼らが一番年上の一郎の帰りを待っていた。 「一郎か。元気にしてたか?」  長作は一郎の頭を撫でた。一郎は嬉しそうだ。 「うん。仕事は順調にいってるよ」 「そうかそうか。よかったな」  一郎はちゃぶ台に座った。弟や妹はみんな寮生活の学生で、みんなここを離れていた。だけど、大型連休になると、ここに集まり、互いにどんな日々を送っているのか話しに来る。 「やっぱりここに帰ってくると、落ち着くね」  一郎はお茶を飲み、くつろいでいた。やっぱり故郷はいいもんだ。心が落ち着く。 「そうだろ。やっぱり故郷はいいもんだぞ」  長作は嬉しそうに一郎の様子を見ている。やっぱり子供たちといる時間はいいものだ。このまま時が止まってほしい。だけど、みんな出て行ってしまう。だけど、時々こうして帰ってくる。 「それに、恋人ができたんだ。もうすぐ結婚なんだよ。もし結婚したら、結婚式にお父さんを呼びたいな」  長作は驚いた。まさか、一郎に恋人ができたとは。早く恋人の姿を見たいな。そして、結婚式に行きたいな。きっと一郎も花嫁を喜ぶだろう。 「そうかそうか。それは嬉しいな。孫ができたら、ぜひ会いたいな」  そして、孫に会うのも楽しみだ。孫を連れて家に帰ってきた時は、この腕で抱きしめたいな。 「楽しみに待っててね」 「わかったよ」  その時はいくらでも寂しさを紛らわす事ができた。だが、みんな家を出て行き、そして帰ってこなくなった。みんな、仕事で忙しいからだそうだ。そして、家族といる事が幸せだと感じ始めたようだ。  いつの間にか、長作は泣いていた。今、どんな生活をしているんだろう。ずっとここで暮らしたいのに。そして、ここでみんなと再会したいのに。 「だけど、10年ぐらい前から全く来ていないんです。仕事で忙しくて、それどころじゃないそうです」 「そうなんですか」  肇はそんな長作がかわいそうに思えてきた。自分は新潟で生まれ、東京で仕事をしている。だけど、大型連休になると故郷に帰省している。だが、時間が経つと帰らなくなるんだろうか? 「また会いたいのに。今頃、どうしているんでしょうか?」 「会えたらいいですね」  肇は願っていた。長作の子供たちが再びここにやって来て、楽しい日々を送る事を。だけど、それはいつになるんだろう。 「ここって、静かな所ですね」 「もっと多くの人が住んでたんですけど、みんな死んだり引っ越したりで、私だけになったんです」  ここには最盛期には100件ほどの民家があったそうだ。だが、徐々に人はいなくなり、今では長作だけになってしまった。みんな死んだり、ここを離れたりしていった。 「そうですか。また誰かが住むようになったらいいですね」  だけど肇は不安に思っている。こんな峠道、もう誰も通ろうとしないのに。ここに誰が住むんだろう。今ではトンネルで峠を簡単に超える事ができるのに。その途中にある集落なんて、誰が通るんだろう。 「こんな山奥に、不便な所に、誰が来るんでしょうか?」 「そうですね。だけど信じましょう」  それでも肇は願っていた。また長作の子供たちが帰って来る事を。そしてこの集落に再び賑わいが戻る事を。
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