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明るい床
「以前、ネットで知った話なんだけどね……」
波里はベッドに仰向けに横たわって目を閉じたまま、話し続けていた。
「うん?」
恋人の毬亜がベッドに両肘を突きながら相づちを打った。
「死に際のウサギが、なぜか餌のペレットをかじろうとしたんだって。」
「おなか、空いてかな?」
「わからない。僕はこう思う。
ウサギには、死の概念はなくて、だからそのウサギは、死に際の自分の状態を、ただひどく具合がわるいだけだと思っていた。
そして、いつもペレットを食べたら元気になったことを思い出して、ペレットをかじろうとした。」
「うん。
そうかも知れない。」
「だとしたら、死の概念のない生き物は、死の瞬間まで、確かに生きてる。……いいなって、思った。」
「……うん。」
「死の概念があれば、死の覚悟をすることもできるけれど、そのせいで、棺桶に片足を突っ込んでいる気持ちになることもある。人間って、ツラいよね。」
波里は口元だけで笑った。顔全体を動かす力は、もう無いのだろう。
毬亜は合わせるように笑って、言った。
「階段でコケて大好物のデザートをぶちまけるよりも辛い?」
波里は声を出しそうに口元で笑った。
「昨日のことみたいに覚えてる。」
「そりゃそうだよ、昨日のことだもん。」
波里の話し方はハッキリしているけれど、たぶんもう、いろんな感覚が曖昧になっているのだろう。
毬亜は急に泣き出した。
「昨日だよ?
なんで?
なんで、波里がこんな目に遭うの?」
波里は両親と不仲だった。
最初から不仲だったわけではない。
母親が更年期に入るまでは、波里の家族は上手くいっているほうだった。
だが、更年期障害になった母親が自分の更年期を認めず、治療を拒否し続けたため、家庭内はめちゃくちゃになった。それを治められなかった父親まで、男性更年期になり、自殺した。
それによって、波里の母親は、波里が悪魔の子だという妄想を持った。父親殺しがいい証拠の、悪魔の子だと言いふらした。親族や友人たちの言うことには耳を貸さず、そして……
ゆうべのことだった。
波里の食事に毒を盛った。
複数の毒を混ぜていた。
波里はデザートを自室でゆっくり食べようとして、部屋のある階段を上がる途中で倒れた。デザートは、波里の大好きな麦芽プリンだった。
隣家にいた毬亜が食器の割れる音に気づき、かけつけて119番通報したが、手遅れだった。
今は、医師によってどうにか意識を回復させた状態で、毬亜と話していた。
通常、家族以外立ち会えないはずの場だ。
毬亜は、血の繋がらない妹だった。
赤ちゃんの時に波里の家に引きとられ、共に育った。
波里の父親が男性更年期になり、毬亜をまるでホステスのように扱い始めた時、心配したお隣さんが一時的に毬亜を保護したのだ。
思春期に入ったあたりから互いに惹かれ合いはじめていた波里と毬亜は、中学卒業時に血が繋がっていないことを知り、いつか今の籍から外れて結婚しようと夢見ていた。
そう、夢を見ていた。
幸せな、叶うはずの夢だった。
だが、終わろうとしていた。
「毬亜……」
「なに?」
「僕の部屋の引き出しに、日記帳が入ってる。
ふだん、疑問に思ったことや、まだわかりそうにないことを、日記みたいに書いてある。
それを、受け取って。」
「え?」
「答えを、言いに来て。
わかるたびに、会いに来て。」
毬亜の目から、涙が落ちた。
毬亜は慌てて涙を拭った。反射的に鼻をすすってしまった。
「毬亜? 泣いてるの?
ごめんね、こんなことしか言えなくて。
本当は、もっと男らしいことが言いたいんだけど、言わなくちゃいけないんだけど。」
波里の声は震えていた。
「ううん!
こんな時に男らしくあろうなんて、変にカッコつけないで。
いつもの波里だったら、泣きごと言うところだよ。波里のままの波里でいてよ。」
最後まで、とは言えなかった。
「ありがとう。だから好きなんだ。
毬亜といるのがいちばん好きだった……」
波里の顔が、何か思い出したように微笑んだ。
そして医師が最終確認して頭を下げ、引いた。
波里の母親は警察から精神科の病院に身柄を移されていたため、その場にはいなかった。
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