前編【徳網怜次】

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前編【徳網怜次】

親は子である俺を殺そうとした。周囲に止める大人はいなかった。信頼できる人間などいなかった。人の温もりも、優しさも、愛することも知らない。 まっとうな生き方を教えられずに育った俺は、当然社会から浮いていた。生きるために必要な知識は、極道の世界で学んだ。極道の世界が、俺にとって唯一の居場所だ。  この世界に俺の存在を刻み込めるなら、死ぬのも怖くないと思っていた。 ――初夏の夜――  繁華街のネオンが盛る頃。眠らない街にも、ベッドタウンにも、夜の闇は平等に訪れる。闇の中でしか生きられない人間が、この街には大勢いる。俺――徳網怜次もその一人だ。夜だろうと昼だろうと、闇の世界でひっそりと生きる。決して表社会に出ることのできない人間。  煌びやかな夜の街に生える光沢のあるスーツに、赤を基調にした派手なネクタイ。腕には高級時計を光らせて、重厚なセダンの後部座席から降りた。出掛ける前に丁寧にセットした前髪がはらりと額にかかるのを感じて、もう一度手でしっかりと撫でつける。  俺と若頭の田崎は、一軒の高級クラブの前で足を止めた。 「ここか――例の、不審な男が出入りしてる店は」  背後に気配を漂わせている男に声だけで確認する。俺より地味なスーツのその男は、声だけで頭を垂れているのが分かるほど低姿勢な声で言った。 「はい。黒服の話によると、以前竹崎組の構成員が接触していた人物に似ているとか」  竹崎組。その名前に良い印象はなく、ついてくるのは不穏な空気だけ。 俺が組を持つよりも遥かに昔――親分だった浅葱さんという人物に拾われ、組のフロント企業で働いていた俺は、当初から目を掛けてくれていた彼に認められ、企業の雑用から龍義会の幹部に上り詰めた。ところが、浅葱さんが組を離れ、親団体である紫雲会の幹部に抜擢されようかという折に、何者かに襲撃されて命を落とす事件が起こった。当時、龍義会では、浅葱組長の兄弟分でありながら不協和音を響かせていた、竹崎士郎率いる竹崎組に疑いの目が向けられたが、表立った抗争に発展しないまま七年が過ぎ、若頭だった俺は、浅葱組長亡き後組長に就任していた。 龍義会と竹崎組は、関西で最大規模の指定暴力団・紫雲会の二次団体だ。最近は全国で暴力団排除条例が敷かれ、シノギに悲鳴を上げる組織が少なくない中、竹崎組は順調に勢力を伸ばしている。しかしそれも儲け主義の竹崎の指示で、紫雲会ではご法度の「薬の売買」に手を染めているらしいとの噂も聞く。店に出入りしている不審人物が竹崎側の人間なら、店の女と親しくなって顧客を釣ろうという程度だろう。  生憎、この近辺なら俺に怖いものはない。俺がいつも直々に出向いて世話をしている連中が目を光らせている。そう簡単に裏をかくことはできない。  ――その慢心が油断を招いたのだろうか。  暫く店の入り口付近で客を装い様子を見ていたが、五分ほど経った頃隣にいた田崎が携帯を手にこちらを向いた。 「徳網さん、ちょっと失礼します」  手にした携帯が小刻みに震えている。 「ああ、いいぞ」 「すぐに戻ります。何かあっても、一人で動かないでください」  田崎は俺より上背のある大男だが、慎重派で心配性だ。頬に大きな傷跡のある、厳つい見た目に似合わない。  田崎の心配を汲み取り、招致したことを伝えんと片手を上げて頷いた。田崎はこちらに背を向け、店のすぐ横の狭い路地に入って話し始める。不審人物の情報が得られたのかと思いきや、ずっと相槌を打ってばかりいる。  電話の声に耳を傾けながら、煙草を取り出した時だった。 「誰か、警察を呼んで!!」  叫び声とともに、クラブの中から聞こえる騒音。動きがあった。不審な男は、すでに店の中にいたのだ。  店の入り口が荒々しく開き、明らかに怪しい男が飛び出してくる。その手に銃はなかったが、黒いスラックスにモスグリーンの古びたジャケットが他の客との違和感を醸し出している。この男に違いない――直感的にそう思った。 「おい、てめえ……」  肩を掴もうとする俺の手を振り払い、男は走り出した。 「てめッ……待ちやがれ!!」  一人で行動するなと言っていた田崎の言葉も忘れ、俺は一人で男を追い掛けて夜の街を走った。生憎、田崎が電話していた路地とは逆方向に向かっていて、俺がいなくなったことに田崎は気付いていなかった。 「くそっ……」  完全に援護を呼ぶチャンスを失った。  やがて人ごみに男の影を見失い、すっかり息が上がっていることに気付く。 「逃がしたか……」  いかにも「善人」ではない風貌の俺を、夜の街に輝くネオンは素知らぬ顔で照らし続けている。道行く人々も同様に、俺を遠目に見ては過ぎ去っていった。  反対方向に向かって、ドッと人の波が押し寄せる。その波に呑まれそうで、慌てて俺は身を引いた、その瞬間――――  脇腹に鋭い衝撃を感じ、背筋がひやりと寒くなる。脚にどろっと伝う、生暖かい何か。視線を落とすと、地面に真っ赤な血が花火のように咲いている。そこでようやく「刺された」のだと理解した。 「くそっ……てめえか……」  やはりクラブから飛び出してきた男だった。ジャケットのフードを被り、人混みで堂々と隙を突いてくる手口は素人とは思えない。 「あんた、どっかで見た顔だと思ったら、龍義会の徳網さんじゃねぇか」  男の顔はフードで隠れてよく見えない。引っ剥がしてやりたいが、刺された脇腹を庇う手に力が入らずそれも叶わない。  男から離れようと身を捩る。鋭い痛みが脳天を突き抜けた。男の手に握られている短刀が、まだ脇腹に刺さっていることに気付いた。 「店の顧客と名簿奪って退散する予定だったんだがな。まさか組長サン自ら出張ってくるとはね。あんたのタマ土産にしたら、あの人もきっと喜ぶぜ」 「あの人ってのは、どいつだ? どうして俺たちのシノギに手ぇ出した?」 「それはあんたらの方で目星ついてんじゃねぇの? あの世で浅葱サンに報告しろよ」  男はニヤリと笑う。どくんと心臓が波打った。 「どうして浅葱さんのことを……。てめぇは、いったい……」 傍から見れば、二人の男がただ口論している風にしか見えないのだろうか。繁華街を行き交う人々は気に掛けることなく過ぎ去っていく。  早くこの場を切り抜けなければ殺される。できればこの男を事務所に連れ帰って拷問にかけてやりたいところだが、予想以上に深手を負っていて立っているだけでやっとだ。  危機感と歯がゆさの狭間に置かれ、田崎が気付いて加勢してくれることに懸けて時間を稼ぐことにした。 「質問に答えろ。浅葱さんを手にかけた奴を知ってるか?」  男の目はフードで見えず、ニッと笑った口元だけが見えた。 「さあ……七年も前に死んじまった奴のことなんか、忘れたなァ」 「んだと――それじゃてめぇが」  男は俺を煽っている。分かっていても、浅葱さんのことを思い出すと込み上げる怒りを抑えようがない。 「あの時――紫雲会は、長年敵対関係にあったと手打ちになるところまできていた。浅葱組長もそれに尽力したんだ。それなのにどうして殺される必要がある」 「さてね。あの男自身、不思議そうな顔してたよ」  男が口にした言葉がすぐには理解できず、目を白黒させていたらしい。 「すごい顔してるな。あん時の浅葱サンみてえな顔してる」 「まさか、浅葱さんを殺ったのも――」 「おっと、おしゃべりの時間が過ぎるんじゃねえの? あんたもそろそろ限界だろ。通行人が騒ぎ出す前に退散させてもらうぜ」  言うなり男は俺を近くの暗い路地に突き飛ばした。鋭い痛みが脇腹を突き抜ける。傷口から更に血が溢れて、服と地面を汚した。 ――俺はこのまま死ぬのか……。  極道の世界に脚を踏み入れて、「死ぬかもしれない」と思ったのはこれが初めてではない。どんなに傷を負っても恐怖を感じることはないが、今はただひたすら溢れ出る血と奪われていく体温に死を予感する。 ――浅葱さんを殺った奴の手がかりが、あと少しで掴めそうだったのに……。こんなところで終わりたくない。こんな末路は、嫌だ……。
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