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「どうしたんです。大丈夫ですか」
薄れゆく意識の糸を手繰り寄せるように、若く明瞭な声に呼び起こされた。男の声だ。
「しっかりしてください」
温かい手が肩に触れる。その手がそっと上体を抱き上げて体を横にしてくれたので、ようやく楽な姿勢になれた。
「ひどい出血だ。救急車、呼びますね」
目の前がぼんやりしているが、なんとなく声の主は俺よりも若い男だと思った。うっすらと視界に入ってきたのは、聡明でつんと通った鼻筋。続いて太い眉と、強い瞳が見える。
青年は鞄から携帯電話を取り出し、落ち着いた動作で電話をかけた。
「怪我人です。救急車、お願いします。場所は――」
あまりの手際の良さに見入っていると、名前と年齢を尋ねられた。
「徳網、怜次。歳は……三十六」
「徳網怜次さん、三十六歳です。意識はあります」
やがていくつかの受け答えを終えると、青年は携帯電話を切って俺を覗き込んだ。
「すぐに救急車が来ますから、楽にしていてください」
「あんた、誰だ。どうしてこんな……助けてくれるんだ」
すると青年は改まって俺の方に向き直り、花井総合病院の医師で、陽野という名であることを明かした。
随分若く見えるが、医者であることと落ち着いていることから、それほど歳は離れていないのだろうかとも思う。
ぼんやりしていると、陽野は濃紺のジャケットの袖を捲り上げた。
「止血したほうがいいですね。ちょっと触ります」
そう言うとスーツのジャケットを捲り、シャツの裾を引き裂いた。
「な、にして……いってェ!!」
思わず情けない声が出てしまう。
「すみません、傷が深いようなので止血します」
人に触られるのは苦手だ。ただでさえ痛みでどうにかなりそうなのに、そこを触られると思うとぞっとする。
「やめろ、触るな」
「いいから、じっとしててください」
初めて陽野の顔をちゃんと見た。よく見ると精悍な顔つきをしている。
気を取られていると、冷たいものが脇腹に当たった。よく見えないが、コンビニの袋を手袋のように巻いて傷口を押さえている。驚いたのと不快なのとで、呻き声が漏れてしまった。
「完璧に止血したわけじゃないけど、救急車が来るまでこれでもたせます。もう少しだけ我慢してください」
声は穏やかだが目は真剣で、額には汗が滲んでいる。
陽野が汗を拭ったところで、救急車が到着した。これまでまったく事の顛末に気付いていなかった通行人たちが、救急車のサイレンにざわめき始める。
ざわめきに交じって聞き覚えのある声が人混みを掻き分け近付いてくるのがわかった。
「徳網さん!!」
息せき切って駆け付けて来たのは田崎だ。
「田崎、てめぇ気付くの遅ぇよ」
「すみません――でも、一人で行動しないでくださいってあれほど言ったじゃないですか」
「わかってる。猛省してるから大きな声出すな」
俺がいつもの調子で受け流すのを聞いて安心したのか、田崎は黙って隣にいる陽野に目をやった。
「徳網さん、こちらは――」
「総合病院のセンセイだとよ。例の不審な男に不意を突かれて、血まみれになってるところを助けてもらった」
陽野は決していい人には見えない田崎を前にしても動じることなく、ぺこりとお辞儀をする。
到着した救急隊と彼が何かを相談し合った後、俺を乗せた救急車は花井総合病院へ向かうと告げられた。
救急車には陽野が付き添い、田崎は車で追い掛けることになった。その指示も陽野がした。
生まれて初めて乗る救急車の乗り心地は最悪で。病院に近付くにつれ、意識が朦朧とし始める。最後に見たのは夜間救急の入り口に点灯する赤いランプ。その後、処置室の蛍光灯の光で目の前が真っ白になり、そのまま意識を手放した。
時折、腹の奥で内臓を引っ掻き回されるような不快感に呼び起こされるも、すぐにまたぼんやりと意識は遠のいていく。その繰り返しだった。
気付くと真っ白な病室にいた。壁も天井も真っ白で、カーテンが開いたままの窓からは朝の白い光が差し込んでいる。
明るく清潔な部屋。時折救急車のサイレンが聞こえる以外はしんと静まり返っている。静寂が、居心地悪い。
寝返りの打てないもどかしさに苛々していると、病室のドアが開いて看護師が入ってきた。
「徳網さん――目、覚めましたか」
俺が目を開けていることを確認するや、急ぎ足で駆け寄って枕もとの機械と点滴の管を交互に確認している。
「気分はどうですか」
「ああ……全身が痛ぇな」
「もうすぐ先生が来ますから」
先生――陽野のことか。頭の中でその名前を呟いてから、ふと考える。清廉潔白で、自分とは無縁の世界に生きているあの男との出会いは、夢だったのではないかと。
それが夢ではないことを証明するように、静かにドアが開いて病室の空気を入れ替えるように一人の青年が入ってきた。
「徳網さん、気分はどうですか」
数時間前に聞いたのと同じ、清々しい声だった。
「見ての通りだ。そこら中が痛む」
「傷も痛みます?」
「当たり前だ。痛みで眠れなくて起きちまったくらいだ。あんた下手くそなんだよ」
陽野先生は困ったように眉を下げて肩を竦めた。
「だって徳網さん、治療の間なにも言わないんだもの。もっと『ここが痛い』とか『触るな』とか言って大騒ぎすると思ったのに。縫合も、終わってから色々言われてもね」
今さらを文句を言っても遅いですよ、と言う先生に動じる様子はない。
「センセイ、歳いくつだ?」
「二十九です」
「ずいぶん若いんだな」
実際、陽野は若く見える。しかしそれは見た目だけで、口を開くとかなり落ち着いている。狼狽する様子もない。俺は明らかに他の患者と違う種類の人間なはずだが、そんな俺を前にしても萎縮どころか態度を変えることすらなかった。
「徳網さんも、その歳でずいぶん偉い人なんですね」
先生はベッドの横にある丸椅子に腰掛けた。
「どうして俺のことを知ってる?」
「外にいる田崎さんて方に聞きました。徳網さんを警護させてほしいって言われるから、何かと思って聞いてみたら」
どうやら田崎は扉のすぐ向こうにいるらしい。昨夜担ぎ込まれてから目覚めるまでの成り行きを知らないせいで、龍義会の内部もどうなっているのか不安になる。
「なにも心配ありませんよ」
先生が心を読んだかのように言うので、びっくりした。
「田崎さんから、徳網さんの意識が戻ったら伝えてくれと頼まれていました」
「そういうことか。読心術でも使えんのかと思った」
だったら、田崎が自分で言えばいいのに。
「まだ、付き添いの方も入れないんです。本来ならICUにいなきゃいけないような状態なんですけど」
「やっぱセンセイ、読心術使えんじゃねぇの? 要するに、俺が普通の患者じゃねぇから、こんな隔離病棟みてぇなところに入れられてんだろ?」
「隔離病棟って」
もう一度、今度は笑いながら眉を下げ、肩を竦める仕草をした。
「ここ、日当たりがよくてどの患者さんも気に入ってくれる部屋なんですよ」
「日当たりが良すぎるんだよ。こんな明るい場所は好きじゃねぇ」
「生まれて一度も日光に当たったことがないくらい真っ白ですもんね。でも、嫌でも当分は入院ですからね」
冗談めいた口調から真剣な表情に変わると、先生は「傷を見せてください」と言った。昨夜よりもっと医者らしい雰囲気を宿した先生は、薄い手袋をして傷の具合を見始めた。
「徳網さんは、人望が厚いんですね」
縫合した傷口を触りながら、ふとそんなことを言う。
「どうして?」
「意識が戻る前、お友だちが大勢駆け付けてましたよ。ものすごく心配してました」
「お友だち、ねぇ」
知っていて言っているのか、本当に世間知らずなのか、先生と話しているとわけがわからなくなりそうだ。
「陽野センセイよぉ、俺がどんな人間なのかわかってんだろ?」
「ヤクザなんですよね。最初に見た時はホストかと思いました。徳網さん、綺麗な顔してるから」
年下の青年にすました顔でそんなことを言われて、不覚にも顔が熱くなった。以前、ある人にも同じことを言われたのを思い出した。
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