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ここは行き止まりだ。
男は、うつろな表情でうす暗い部屋を見まわした。
色あせた壁紙、ほこりっぽい板張りの床。かつて店だった場所だ。
先月まではかろうじて棚があり、各地から取りよせた色とりどりの織物を並べていたが、すべて借金のカタとして奪われてしまった。
彼のほかに人影はない。家族も友人もとっくに離れていった。商売にかぎったことではなく、彼は強引すぎたのだろう。
涙は出ず、ようやく口にした言葉も乾ききっていた。
「なにもないな。からっぽだ」
汚れた窓から西日が差す。男の手の中で銀色のものが光った。ナイフだ。彼はそれを首すじに近づけていく。冷たい刃の気配が皮膚に迫る。
唐突に、ささやきが耳をくすぐった。
「糸をお切りになる?」
「うわっ!」
男はナイフを取り落とす。
ハッと右をむけば、目と鼻の先に黒いクモがぶら下がっていた。天井から糸を引いている。三十年以上店をやってきたが、こんなに大きなクモは出たことがなかった。
驚く男に、クモは深みのある女の声で語りかける。
「魂の糸。終わらせるところだったんでしょう」
「あ、ああ……」
「どうせ切ってしまうなら、私にゆだねて。あなたが苦痛なくこの世を去れるよう、最後の道を編んでさしあげるわ」
不思議な申し出はとても魅力的に響いた。男はとまどいながらうなずく。
その瞬間、店の光景が闇一色に変わった。
浮きあがった両足が着地したのは、レースのように編んだ糸の道だ。髪の毛より細い白糸が、見たこともない複雑な模様を描いている。
「なんだこれは……」
顔をあげれば、今まさに道の先端が編み出されていくところだった。
男はハッとなって闇へさけぶ。
「あんたは魔女だな。人を糸に変える、おとぎ話の魔女だ!」
古い物語が頭を駆けめぐる。幼いころ、祖母の膝の上で聞かされた。
アラクネはクモの魔法つかい
誰にも解けない呪いをかけて、みんなを糸に変えました
八本の脚で編むものは──?
ここまで思い出したとき、命令がこだました。
“進みなさい”
魔女の声はやわらかく厳しく、男の背中を押す。繊細なレースの感触がひたりと裸足に沿い、背筋が凍った。
進まなきゃならない。
この道の果てで、俺はどうなってしまうんだ?
苦痛なく世を去れるというのは間違っていなかった。重くのしかかっていた絶望と後悔を恐怖が塗りつぶし、苦しむ余裕もない。
震えながら一歩を踏み出すと、長い道の全体が揺れた。冷たい汗が頬を流れる。みずからの命で編まれた道がこんなにも薄く、頼りないなんて。
しかし、逃れる術はなかった。
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