アラクネの道

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 鳥のさえずり。ふりそそぐ太陽。  花と緑があふれる路地を、ひとりの青年が走っていく。  あちこちに土や葉っぱをくっつけ、大きな荷物を背負っていた。晴れやかな表情に、道ゆく人が思わずふり返る。  彼は一軒の小屋にたどりつき、扉をあけた。 「アルマ、帰ったぞ」 「ディレン。あなたを待ってた!」  家を埋めつくす薬草や小ビンのあいだから、美しい娘が駆けてくる。ふたりは十日ぶりの口づけをかわした。  髪をなでられた娘は、照れたようにはにかんだ。 「おかえりなさい。めずらしい草は採れた?」 「空振りになるかと思ったが、まずまずだったよ」 「よかった。荷物をほどかなきゃ」 「あとにしよう」  ディレンの笑みが退き、甘い影がかかる。きつく抱きしめられたアルマは、染みわたる陶酔にまぶたを閉じた。名前も身の上も、すべてが嘘だなんて忘れてしまいそうだ。  もう一度唇がふれあう。  が、窓が遠慮なくたたかれた。近所の老人が帽子をふっている。 「邪魔するがね、店は開けてるんだろう。お嬢さん、湿布薬は余ってるかい?」 「は、はい。今出します」  ふたりはあわてて身体を離し、赤い顔を見あわせて笑った。  糸の道を駆けてきたディレンは、通りのむかいからこの光景を…… 彼の過去を見つめていた。  忘れようがない。これは戦乱が起こる直前だ。  彼は魔道師部隊の諜報員で、薬屋に扮して各地の動向を調べていた。  身寄りのない娘と暮らすようになったが、相手が敵国人だとは見抜けなかった。こともあろうに、王に心をささげた優秀な魔女だとは。  しかし、嘘の上になりたつ関係が壊れるまでのあいだ、彼は本当に幸せだった。これが本当の自分であったならと願うほどに。  ディレンは魔女を抱く腕に力をこめた。 「アルマ、お前は…… 死を望む者に、“幸福な記憶へつながる道”を編んでいたのか」  事業に失敗した商人は、店が軌道に乗っていたころ、子供たちの誕生日を盛大に祝った思い出にたどりついた。  身分違いの恋が破れた少女は、相手と過ごしたわずかな時間の思い出に。  不治の病で寝たきりになった老人は、大好きな山に登った青春の思い出に……  そして、魔女自身の道は、敵の魔道士と暮らした偽りの日々へとつながっていた。 「違う。私は、王のために……」  魔女は両手で顔をおおう。細い肩をディレンがそっとなでた。彼の声も震えている。 「いつから気づいていた?」  王ではなく、彼を選んでいると。  やがて、魔女がやつれた顔をあげた。 「愛されないのはわかっていたわ。あの方にとって、私は駒のひとつでしかなかった」  どれほど忠誠を誓い、危険な任務を果たしても、冷徹な王の心は動かない。しかし若い魔女はひたすらに愛をささげた。  たった一度でいい。  私だけに微笑みかけ、やさしくふれてくれたなら──  儚い願いは、王が命を奪われてから余計に強くなった。  想いは呪わしい魔法を生む。  魂の糸で彼をよみがえらせたならば、きっと愛を返してくれる。彼女はそう信じた。  魔女はつぶやく。 「はじめは、捨てられる命をただ巻き取っていたの。復活の道が編めさえすれば、それでよかった」  人生に耐えられなくなった者は、いつの時代にもたくさんいた。ひとりひとりと接するうちに、かたくなだった魔女の心が形を変えていく。 「最後になにかしてあげたくなった。誰だって幸せな思い出があるでしょう? せめて命の終わりには、そこに還れるように……」 「よく思いついたな」 「夢を見たから。あなたの夢」  くり返し見てきた宮廷の夢には、つづきがあった。  手に王の肩が置かれ、彼女はふりむく。しかしそこにいるのは、髪や服に葉っぱをくっつけたディレンだ。  彼はきょとんとした顔で言う。  “アルマ、なにしてるんだ。そろそろ店を開けないと” 「帰るのが当たり前みたいに言うの。こんな夢ばかり見ていたら、王の道を編む気もなくなるじゃない」  彼女は泣き顔で笑いかけ、ハッと思い当たった。 「……シュピーネだわ。これはシュピーネの魔法」 「何者だ」 「私が魔法をかけたクモ。夢を食べてもらっていたの」 「夢の魔法だと? 俺が魔力に呼ばれたのも、眠っている時だった」  魔女はいてもたってもいられず、空にむかって声をあげた。 「シュピーネ、あの女の子はあなたがつくったのね。それに、ディレンを呼びよせた……!」  景色が白くぼやける。気がついた時には、ふたりは雨につつまれた小屋の中に立っていた。  驚いて部屋を見まわすディレンのとなりで、アルマが床にしゃがみこんだ。 「ああ、そんな。シュピーネ……」  震える手ですくいあげたのは、脚をちぢめて動かなくなったクモの亡骸だ。  孤独な魔女に寄りそってきた小さな友達は、彼女の真実の心を知っていた。自分の寿命が近いと悟り、最後の役目を果たしたのだ。  ディレンが傍に膝をつき、シュピーネを囲った手にふれた。 「埋めてやろう。この森の、一番いい場所に」  アルマの頬を涙がつたう。 「……助けられたらよかった」  シュピーネだけではない。今まで見送ってきた人々を、ひとり残らず思い出した。中には、この世に引き止められた者もいたかもしれない。  ディレンはまっすぐにアルマを見る。 「新しいやり方を探そう。俺たちには魔法がある」  片方だけの瞳の底にほのかな光があった。  彼女への心だ。長く複雑な道をたどってきた想いが、静かに輝いている。  光を受けとったアルマは、闇の中で編みかけの王の道が解けていくのを感じ、愛する男におだやかな微笑みを返した。
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