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その日の夜、記憶にないはずの彼の過去に触れた。
『君もサボり?』
彼が訊く。彼女はためらったのちにうなずく。それからふたりは少しずつ、少しずつ距離をつめてゆく。
彼は彼女の孤独を知って、生きる苦悩を分かちあって、その言葉の奥底にある希死念慮に気づいてゆく。世界はもう閉ざされていない。言葉が通じる人を、たったひとり見つけたから。
ふたりきりの孤独は心地よかった。どこへでも行ける気がしたし、何でもできる気がした。その一時的な危うい万能感によって、彼は彼女への好意を知る。それと同じように彼女も、彼への想いに気づいていく。
いつかの屋上は星がまたたいていた。
人影がふたつある。ひとつは彼のもの。
もうひとつは彼女のもの。
『人って、死んだら星になるのかな』
夢みるように彼女がつぶやいて、その声はいつまでも耳のなかに残った。
『わたしたち、一緒に死ぬことにしない?』
そう言う彼女はどこか楽しそうだ。幼い声。まるで夏休みの計画を話すような口調。
彼の顔はよく見えない。それに賛同するようにも、否定するようにも、悲しんでいるようにも見える。
『大好きだよ』って彼女が言う。
その声の響きは、ちゃんと本物に聞こえた。本当のことを口にするのは、いつもどこでだって苦しい。
『だから、ずっと一緒にいよう?』
彼女の声ばかり聞こえる。
気づけば、彼女はフェンスを乗り越えている。誘うように伸ばされた手。
彼が彼女に一歩近づく。わたしはそれを見ていることしかできない。夜の底にむけて死が、大きく口を開けている。こんなときでも星は光って、世界を冷たく照らしている。
『僕も君が大好きだよ』
夜の静寂を切り裂くように、彼が叫ぶ声がする。苦しげに唸るような、どうしようもないことを話すときのような、手の届かない光を必死で希うときの声。
『本当は、僕は君の生きる理由になりたかった。でも、そんな気持ちじゃ君を救えないのも分かってた。君の望みを叶えてあげたかった。一方で、なんとしても阻止しようとも思った。母さんも自殺だったから。僕の目の前で死んだから。これ以上誰かが、大切な人が死ぬのを見たくなかった。幼い頃の僕が、いつまでもそう叫ぶんだ。だから僕は何度でも、同じことを願ってしまう。君が本当に好きだから、僕はこうするしかなかった』
彼女の腕を彼が引く。
思いのほか強い力で。
なんでそんなことするの?
そう言いたげな彼女の目が大きく見開かれていく。彼は薄くほほ笑んで、自分が起こした結果に満足していることが分かる。
夜空に踊るシルエットは、次第に闇にまぎれていく。流星みたいに落ちて消える。わたしは目を逸らすことができない。見えなくなる寸前まで、夜空の先に目を凝らす。
取り残された影はひとつ。
その影はわずかに震えている。彼が恐れていたものの正体にわたしは触れてしまう。取り返しのつかないことが起きてしまったことだけが分かる。
誰かが屋上で泣いている。わたしが知らないはずの影。涙はいつまでも止まらない。彼の残した言葉の意味を彼女は考え続けている。いつだって彼女にとって、死はやわらかな救済だった。
『どうして?』
消えない問いだけが残る。
答える人は誰もいない。世界はふたたび閉ざされて、言葉が通じる人もいない。
それなのに、彼女はどこへも行けない。
いつかの彼と同じように。
『全部、夢だったらいいのに』
そう強く願った彼女は、屋上に行くのをやめてしまう。
わたしはこの夢が終わりに近づいていることを知る。彼に会えるのも、次で最後だろう。そう覚悟する自分がいる。わたしが会っていた彼は、記憶のなかにしかもういない。
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