38人が本棚に入れています
本棚に追加
目覚めた時、太陽は中天に登っていた。
懐かしい夢を見ていた。
新芽の曙光。
すっかり忘れていたのに。
新芽の曙光を失ってしばらくの間、毎日夢を見ては泣いていた。
心配した仲間が一緒に眠ってくれて、徐々に夢を見ることが無くなり、私は泣かなくなった。
そして『なぜ?』と思うようになった。
疑問を放置できなくなった。
ふう、と息を吐いて寝床から出ると、顔とくちを洗う。
なにもない私の棲まいだが、小さな水瓶がひとつだけある。起き抜けに顔とくちを洗うので、そのために置いてあるのだ。
これはひと里にいた時に身についた習慣のひとつだ。
人狼は肉を喰らったら後味を楽しむので、くちを濯がない。身体が汚れても変転すると無くなるので、身体を清めるために何かをすることがない。
変転できぬ子狼の頃でも、親や老いたものが身体を舐めるくらいで、遊びで水浴びすることはあってもくちを濯ぐなどしない。
けれど王都へ行く前、『商人』が言ったのだ。
『ひと里に長くいるなら、毎朝顔とくちを洗え。それで『育ちが良い』と判断される。ただでさえ目立ってしまうのだから、そう思わせておけ』
人狼がひと族に混じれば、必ず目立つ。面倒な輩がいても、簡単に噛み殺すわけにいかないのならば、やりやすい方が良い。
私は納得して、王都にいる間、必ずそうしていた。
それに、ずっとひと形でいると、くちの中がだんだん気持ち悪くなる。香り草を噛めばくちの中はさっぱりするのだが、ひと里に香り草は無い。あったとしても草を噛んでペッと吐き出すなど、王都ではできない。
郷に戻っても続けている理由は、正直よく分からない。そうした方が良いという直感に従っているだけだ。
水瓶は小さく、水はすぐに無くなる。棲まいから一番近い水の道へ行った。まだ太陽が明るいこの時間、ほとんどの人狼は寝ている。
鳥や獣は起きているけれど、人狼が姿を現せばすぐに逃げる。残るのは虫だけだ。虫は愚かなので、よく子狼の周りを飛び回って叩き潰されている。
なのに、すぐ近くからチッチッと鳥の鳴き声がした。見ると傍の低木に、鷹より二回りほど小さい鳥がいる。
飛び立とうとしていない。それどころか木から飛び降り、ひょこひょこと近寄ってきた。
この鳥はなんだ? 人狼に寄ってくるなど、喰らわれたいのか? 腹は減っていないので喰らいはしないけれど、とびきり愚かなのか?
頭と背が黒、腹が白で、羽の先端に向けて徐々に青くなっている美しい鳥だ。黒く丸い目は、しっかりとこちらを見ていて、愚かには見えない。むしろ賢そうだし、かなり怯えている匂いもする。
それに紛れて、微かに感じた。
「ベータ筆頭? ……の匂いか?」
手を伸ばしても鳥は逃げない。胴を鷲掴んだが、おとなしく私を見ている。
調べてみると、青くなっている羽先に畳んだ葉が挟まっていた。それを抜くと鳥がもがいたので手を離す。鳥はチッチッと鳴いて羽ばたき、飛び去って行った。
葉を開き目を落とすと文字が書いてあった。ひと族の文字だ。
ハッとして鼻で鳥の行方を追ったが、はるか遠くまで飛び去ってしまったらしく、もう分からない。
ひと族が使う文字と郷で使う文字は少しだけ違う。言葉の意味はだいぶ違うので、ひと族の文字が読める人狼は少ない。おそらくシグマの中でも私を含め五匹、あとは……ベータも、読めるだろう。郷外との交渉はベータの役目だ。ひと族の文字を読めた方が有利に運ぶことは多い。
「なるほど?」
どうやらベータ筆頭は、表立って私と接触したくないらしい。
『夜二つ後に我が棲まいへ来い。それまでにガンマの森に入れ。辿り着く。』
文面はこれだけ。
「ガンマの森に入れる、ということですか」
シグマ筆頭だけはガンマを呼び出すことができるけれど、アルファであろうとガンマのもとへ連れていくことはない。
なぜシグマ筆頭を通さねばガンマに逢えないかといえば、棲まいを知るものが他にいないからなのだ。
なぜ誰も棲まいを知らないか。誰も辿り着けないからだ。
突然不安感に襲われるので、みなガンマの森に入ることを怖れる。誤って入り込むのは避けるし、仔狼には近づくことを禁じる。
私が幼い頃にひどい目に遭ったように、ガンマの森の精霊は人狼の精神に作用するのだ。
あくまで私の仮説だけれど、ガンマの森に入り込んだ人狼が不安や苛立ち、怖れを感じて進めなくなるのは、おそらく感覚が鈍るからではないかと考えている。
感覚を研ぎ澄ませ行動する人狼にとって、感覚が鈍るのはとても不快だし、不安になる。ゆえにみな避けるようになるのだろう。
ともかく、私はできれば直接ガンマと話したかったし、そこにシグマ筆頭がいるのは避けたいと考えていた。だからベータ筆頭に頼れないかと思っていたのだ。
昨夜はガンマに会いに行くと言っただけだけれど、ベータ筆頭は深読みし、先回りしてくれたようだ。
「うん、ありがたい」
ふ、と息を吐きながら、鳥の飛び去った空を見上げる。
さっきは葉の手紙を届けてくれたのに怖れさせてしまった。もし今度があるなら、おいしい果実でも用意しておこうか。
◆ ◇ ◆
ガンマに会いに行く。そう言うと、カイは心配そうに言った。
「やめた、方が」
そして、子狼の頃、私が蛇苺を貪ったことを遠慮がちに言ってきた。
夢で見たばかりの話をされ、クスッと笑ってしまう。カイも同じ夢を見たのだろう。
珍しいことではない。精霊はときおり人狼の夢に作用する。同じ務めを負う人狼は、それで精霊の思召しを悟り、心と意識を一つにするのだ。
「大丈夫ですよ。もう幼くは無いのですから」
「でも怖かった。シグマ、また遊ばれたら」
「それに直接ガンマに話せたら、早く筆頭を助けに行けます」
カイは眉を寄せて考え込む。それでもイヤそうな気配を隠そうとしていない。
泣いていた幼いカイを思い出す。
「では、私だけで行ってきますね」
「え」
そういえばあの時、カイは「こわい」と言いつつ付いてきたのだった。独特の感覚を持つカイに、ガンマの森は辛いのかもしれない。
「怖いのでしょう? 無理しなくてもいいですよ」
「……ん、ん-ん」
「今回は通してくれるようにお願いするだけですから、すぐ済みますし」
カイは慌てたように首を振った。
「……おれも、いく」
そうしてその夜、私はカイと共にガンマの森へ分け入った。
森に入って百歩も進まぬうちにカイが言う。
「やっぱ、こわい」
「カイは待っていても良かったのに」
「シグマ、……こわく、ない?」
「そうですね。大丈夫みたいです」
それに、どちらへ進めばよいか分かる。鼻も耳も利かず目も見通せないが、なにかが私を導いている。ベータ筆頭が何かしてくれたのかもしれない。
「すこしは、こわい……?」
「いいえ。怖れはありません」
なにか分からない存在はある。精霊なのか他のなにかなのか、分からないけれど、少なくとも今、私は“遊ばれて”いないし、怖れも感じない。
ただ、ひしひしと感じていた。ひたすら畏まりたくなるような厳かなものの存在を。
ベータ筆頭が何をしたのか分からないが、『辿り着く』とは、つまり『厳かな何かが受け入れるから辿り着ける』と言うことなのだろう。けれど……
「カイ。怖れを感じているなら戻った方がいいと思います」
怖れさせているなら、カイを歓迎してはいないのだ。
「私だけの方が、よさそうです」
カイは目を揺らす。
迷っているようだ。
「すぐに戻ります。私の棲まいにいてもらえますか」
「……でも」
「ベータ筆頭かルウが、何か情報を持ってくるかもしれません。私はガンマに会いに行っていると伝えてください」
まだ迷う風を見せるカイに、私は笑いかける。
「戻ったとき、カイのお茶を飲みたいです。お願いしていいですか?」
ギュッと目を閉じ、カイは小さく頷いた。
「………分かった」
そのまま脱兎のごとく走り去るカイに笑いながら、私は何かに導かれるまま進んでいく。
最初のコメントを投稿しよう!