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 目覚めた時、太陽は中天に登っていた。  懐かしい夢を見ていた。  新芽の曙光。  すっかり忘れていたのに。  新芽の曙光を失ってしばらくの間、毎日夢を見ては泣いていた。  心配した仲間が一緒に眠ってくれて、徐々に夢を見ることが無くなり、私は泣かなくなった。  そして『なぜ?』と思うようになった。  疑問を放置できなくなった。  ふう、と息を吐いて寝床から出ると、顔とくちを洗う。  なにもない私の棲まいだが、小さな水瓶がひとつだけある。起き抜けに顔とくちを洗うので、そのために置いてあるのだ。  これはひと里にいた時に身についた習慣のひとつだ。  人狼は肉を喰らったら後味を楽しむので、くちを濯がない。身体が汚れても変転すると無くなるので、身体を清めるために何かをすることがない。  変転できぬ子狼の頃でも、親や老いたものが身体を舐めるくらいで、遊びで水浴びすることはあってもくちを濯ぐなどしない。  けれど王都へ行く前、『商人』が言ったのだ。 『ひと里に長くいるなら、毎朝顔とくちを洗え。それで『育ちが良い』と判断される。ただでさえ目立ってしまうのだから、そう思わせておけ』  人狼がひと族に混じれば、必ず目立つ。面倒な輩がいても、簡単に噛み殺すわけにいかないのならば、やりやすい方が良い。  私は納得して、王都にいる間、必ずそうしていた。  それに、ずっとひと形でいると、くちの中がだんだん気持ち悪くなる。香り草を噛めばくちの中はさっぱりするのだが、ひと里に香り草は無い。あったとしても草を噛んでペッと吐き出すなど、王都ではできない。  郷に戻っても続けている理由は、正直よく分からない。そうした方が良いという直感に従っているだけだ。  水瓶は小さく、水はすぐに無くなる。棲まいから一番近い水の道へ行った。まだ太陽が明るいこの時間、ほとんどの人狼は寝ている。  鳥や獣は起きているけれど、人狼が姿を現せばすぐに逃げる。残るのは虫だけだ。虫は愚かなので、よく子狼の周りを飛び回って叩き潰されている。  なのに、すぐ近くからチッチッと鳥の鳴き声がした。見ると傍の低木に、鷹より二回りほど小さい鳥がいる。  飛び立とうとしていない。それどころか木から飛び降り、ひょこひょこと近寄ってきた。  この鳥はなんだ? 人狼に寄ってくるなど、喰らわれたいのか? 腹は減っていないので喰らいはしないけれど、とびきり愚かなのか?  頭と背が黒、腹が白で、羽の先端に向けて徐々に青くなっている美しい鳥だ。黒く丸い目は、しっかりとこちらを見ていて、愚かには見えない。むしろ賢そうだし、かなり怯えている匂いもする。  それに紛れて、微かに感じた。 「ベータ筆頭? ……の匂いか?」  手を伸ばしても鳥は逃げない。胴を鷲掴んだが、おとなしく私を見ている。  調べてみると、青くなっている羽先に畳んだ葉が挟まっていた。それを抜くと鳥がもがいたので手を離す。鳥はチッチッと鳴いて羽ばたき、飛び去って行った。  葉を開き目を落とすと文字が書いてあった。ひと族の文字だ。  ハッとして鼻で鳥の行方を追ったが、はるか遠くまで飛び去ってしまったらしく、もう分からない。  ひと族が使う文字と郷で使う文字は少しだけ違う。言葉の意味はだいぶ違うので、ひと族の文字が読める人狼は少ない。おそらくシグマの中でも私を含め五匹、あとは……ベータも、読めるだろう。郷外との交渉はベータの役目だ。ひと族の文字を読めた方が有利に運ぶことは多い。 「なるほど?」  どうやらベータ筆頭は、表立って私と接触したくないらしい。 『夜二つ後に我が棲まいへ来い。それまでにガンマの森に入れ。辿り着く。』  文面はこれだけ。 「ガンマの森に入れる、ということですか」  シグマ筆頭だけはガンマを呼び出すことができるけれど、アルファであろうとガンマのもとへ連れていくことはない。  なぜシグマ筆頭を通さねばガンマに逢えないかといえば、棲まいを知るものが他にいないからなのだ。  なぜ誰も棲まいを知らないか。誰も辿り着けないからだ。  突然不安感に襲われるので、みなガンマの森に入ることを怖れる。誤って入り込むのは避けるし、仔狼には近づくことを禁じる。  私が幼い頃にひどい目に遭ったように、ガンマの森の精霊は人狼の精神に作用するのだ。  あくまで私の仮説だけれど、ガンマの森に入り込んだ人狼が不安や苛立ち、怖れを感じて進めなくなるのは、おそらく感覚が鈍るからではないかと考えている。  感覚を研ぎ澄ませ行動する人狼にとって、感覚が鈍るのはとても不快だし、不安になる。ゆえにみな避けるようになるのだろう。  ともかく、私はできれば直接ガンマと話したかったし、そこにシグマ筆頭がいるのは避けたいと考えていた。だからベータ筆頭に頼れないかと思っていたのだ。  昨夜はガンマに会いに行くと言っただけだけれど、ベータ筆頭は深読みし、先回りしてくれたようだ。 「うん、ありがたい」  ふ、と息を吐きながら、鳥の飛び去った空を見上げる。  さっきは葉の手紙を届けてくれたのに怖れさせてしまった。もし今度があるなら、おいしい果実でも用意しておこうか。   ◆   ◇   ◆  ガンマに会いに行く。そう言うと、カイは心配そうに言った。 「やめた、方が」  そして、子狼の頃、私が蛇苺を貪ったことを遠慮がちに言ってきた。  夢で見たばかりの話をされ、クスッと笑ってしまう。カイも同じ夢を見たのだろう。  珍しいことではない。精霊はときおり人狼の夢に作用する。同じ務めを負う人狼は、それで精霊の思召しを悟り、心と意識を一つにするのだ。 「大丈夫ですよ。もう幼くは無いのですから」 「でも怖かった。シグマ、また遊ばれたら」 「それに直接ガンマに話せたら、早く筆頭を助けに行けます」  カイは眉を寄せて考え込む。それでもイヤそうな気配を隠そうとしていない。  泣いていた幼いカイを思い出す。 「では、私だけで行ってきますね」 「え」  そういえばあの時、カイは「こわい」と言いつつ付いてきたのだった。独特の感覚を持つカイに、ガンマの森は辛いのかもしれない。 「怖いのでしょう? 無理しなくてもいいですよ」 「……ん、ん-ん」 「今回は通してくれるようにお願いするだけですから、すぐ済みますし」  カイは慌てたように首を振った。 「……おれも、いく」  そうしてその夜、私はカイと共にガンマの森へ分け入った。  森に入って百歩も進まぬうちにカイが言う。 「やっぱ、こわい」 「カイは待っていても良かったのに」 「シグマ、……こわく、ない?」 「そうですね。大丈夫みたいです」  それに、どちらへ進めばよいか分かる。鼻も耳も利かず目も見通せないが、なにかが私を導いている。ベータ筆頭が何かしてくれたのかもしれない。 「すこしは、こわい……?」 「いいえ。怖れはありません」  なにか分からない存在はある。精霊なのか他のなにかなのか、分からないけれど、少なくとも今、私は“遊ばれて”いないし、怖れも感じない。  ただ、ひしひしと感じていた。ひたすら畏まりたくなるような厳かなものの存在を。  ベータ筆頭が何をしたのか分からないが、『辿り着く』とは、つまり『厳かな何かが受け入れるから辿り着ける』と言うことなのだろう。けれど…… 「カイ。怖れを感じているなら戻った方がいいと思います」  怖れさせているなら、カイを歓迎してはいないのだ。 「私だけの方が、よさそうです」  カイは目を揺らす。  迷っているようだ。 「すぐに戻ります。私の棲まいにいてもらえますか」 「……でも」 「ベータ筆頭かルウが、何か情報を持ってくるかもしれません。私はガンマに会いに行っていると伝えてください」  まだ迷う風を見せるカイに、私は笑いかける。 「戻ったとき、カイのお茶を飲みたいです。お願いしていいですか?」  ギュッと目を閉じ、カイは小さく頷いた。 「………分かった」  そのまま脱兎のごとく走り去るカイに笑いながら、私は何かに導かれるまま進んでいく。
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