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ガンマに会うまでは何も感じずに進めたのに、帰ろうとしたとき、森はひどく不安を感じさせた。
「つまり、もう必要ないと」
迎え入れるまでは用があって、なにかしら加減されていた。必要なければ加減はしない、というわけか。
「くっ」
口惜しさに歯を食いしばり、いや冷静になれと呼吸を整える。
迫りくる不安感と怖れる心を抑えねば、打ち消すのだと努めるが、怖れはムクムクと湧き上がり消えない。
とにかく早く森を出た方がいい。私は必死に森を駆けた。
ある一点を過ぎると、それまでが嘘のように怖れがなくなり、入れ替わるように馴染んだ森の匂いを感じた。ガンマの森から出たのだ。
身体から力が抜けて思わず息を吐き、その場で座り込んでしまう。
この森は私を受け入れてくれる。その安心感、そして落胆。
棲み処に行くことができたので、自らガンマに逢える力を得たと内心喜んでいた。そう、シグマ筆頭のように。
だが、そうではなさそうだ。もう一度あの森に足を踏み入れても、匂いも音も気配も感じないのだ。同じ道を辿ることは叶わないだろう。ガンマの棲まいに至るのは容易なことではない、ということか。
―――あのガンマ。
確かに歓迎はされていなかった。それでも最初は淡々としていた。
ガンマはアルファに対してすら素っ気ない。つまりいつもと同じガンマだった。妙な圧は感じさせられたけれど、拒否まではされていなかったはず。
なのに帰る段になったら、森自体が私を追い払おうとしていると言わんばかりに怖れを感じさせた。
……何かが気に障ったのだろうか。私が何かして、それで一度開かれた森が再び閉ざされたのだろうか?
いや、気に障るようなことをする暇も与えられなかった。たったひとつ向けた問いも無視された。おそらくガンマの森に入るには何かしら条件が必要なのだ。今回はベータ筆頭がその条件を満たした? けれど自ら森に入ることはできないはず。もしかしたら、私に報せたように鳥を使った?
考えても分かることではない。推測しかできない。そう分かっていても考えてしまいながら身を起こす。
重い疲労を自覚しつつ、答えの出ないことを考え続けながら足を進めた。
棲まいに近づくと、カイが駆け出してきた。
「だ、だいじょぶ……!?」
身体のあちこちを嗅いでは、聞いてくる。
「どこか痛くない? 気持ち悪くない? おれ、すっごく怖かったから」
カイは私と別れた後、足が進まなくなるほどの恐れを感じ、這いずるように森を出たそうだ。まっすぐここに来て待っていたのだと必死の顔とくちぶりで言いながら、棲まいの前まで引きずるように連れていかれた。
「シグマ大丈夫か、おれ、ずっと」
慌てているカイから匂う心配、安堵。それに気遣い。
自然に笑みを浮かべていた。
「ありがとう。大丈夫ですよ」
「……でも、少し、違う。匂い……」
「そうなんですか?」
匂いが以前と変わったのは、おそらく番と出会ったからだろう。けれど伝えるつもりはない。
「体はなんともないですけれど、ガンマがなにかしたのですかね」
苦笑まじりにガンマのせいにした。カイは納得していない顔だけれど、私はにっこり問いかける。
「それよりルウかベータ筆頭は来ましたか?」
「ん……んーん」
首を振るカイに笑みで頷いた拍子に、思わずため息が漏れてしまった。いけない、カイの前だと気が緩みがちだ。そのカイはまた私の匂いを嗅ぎ、心配そうにしている。
「つ、疲れてる、やすん、で」
「大丈夫ですよ。それより夜三つ後にはあの水の道を渡れることになりました。私と、あなたと、ルウだけ」
「え。渡れる……?」
「ええ、そうです」
「ひっ、ひっとう、たすけに」
「行けますよ。それまでに準備を整えましょう。道具があると言っていましたね?」
「あ……、あるっ! さくせん」
「そうです。作戦を立てて、準備をしなければいけません」
他郷へ行くのだ。なにかしら準備が必要だろうが、私には何が必要か分からない。
「なのでカイにお願いしたいんですが」
「ん、お、おれ、の、巣、に」
カイは私の腕をつかみ引っ張るが、私は動かずに首を振った。
「ガンマが止めた道を行くのですから、他の人狼に知られてはいけない。ここなら他の巣と離れています」
「わ、わかった、もって、くる……!」
森に走り行く背中を見送った。
他の人狼に報せぬ方が良いのは嘘ではないけれど、それだけではない。カイの棲まいのすぐ横に、我が番とあの雌がいるのだ。あの匂いを傍で感じたなら、冷静でいられる自信は無い。我が半身も何かしら反応してしまうかもしれないのだ。行けるわけがない。
はあ、と息を吐く。ひどく疲れていることをいやでも自覚する。しかし僅かでも胸の内を悟らせるわけにはいかない。カイが戻るまで少しでも休むべき。
私は棲まいに入り、香り草の寝床に潜り込んだ。
目を閉じ、眠ろうとして……浮かんだのは我が番。ああ、会いたい。今はどこにいるのだろう。アルファの館か、それとも棲まいで子狼と戯れているのか。
けれど共に在るために、私はやらねばならない。
その障害となるものはいくつかあるけれど……先ほど思った。そのひとつは、あのガンマではないか。
なんというか、得体が知れない。不気味なのだ。
あの爽やかな匂い。とても好ましいけれど、人狼を従わせるような強い匂いではない。なのに妙な圧があって、指先がわずかに動いただけで、気づくと従っていた。
伸びすぎた白すぎる毛。その合間に垣間見える肌も白すぎるし、唇も白に近い薄桃色で今にも死にそうなほど血の気を感じない。顔は見えないし匂いは変わらないし、何を考えてるかまったく分からない。
私が腕をひと振りすれば倒れるだろうと思えるほど小さくて細く、生きていないかのような存在の軽さを感じる。覇気も感じなければ威圧もない。なのに長く白い毛に遮られた眼差しひとつ、ただ嫌悪感をぶつけたような一瞥で一瞬、普通に呼吸することすら難しくなった。あれが単なる人狼なのか?
ガンマとはそういうものなのか、あのガンマが特別なのか、……分からないけれど言い知れぬ強制力があった。あれはなんとなく、私にとって良くない感じがする。頭の隅で警報が明滅しているような危機感。
私は今まで、気づくと“なんとなく”感じたことに従って行動している。これからもこの感覚をないがしろにするつもりはない。
ならば接点を持たずにやり過ごすべきか? けれどこの先は、そうもいかなくなるだろう。
あれを避けていては、この森で何もできないというのも、なんとなく理解できた。そうでなくとも精霊のことはガンマにしか分からない。
だからといって従うべきかと言えば、それは絶対に違う。あれはそもそも人狼なのだろうか。何か違うものなのでは?
ああ、頭の中が過熱気味で堂々巡りになっているような気がする。
願うのは最愛の幸せ、それだけなのに。
あの寂しげな笑みはもう見たくない。この衝動こそが正しい。それ以外すべて、心の底からどうでもいい。
良き人狼とか正しいとかどうでもいい。森や群れの行く末、掟、精霊に殉ずる心……今まで大切にしてきた諸々から解き放たれている。最愛にであったからこそ知ることができた、これこそが本来の我が姿。
でも、だからこそ、今は自分を律する必要がある。突っ走ってはいけない。冷静にならなければ。万が一にも破綻すれば、望みは叶うまい。
心安らかで幸せそうな、心から嬉しいと教えてくれる、そんな笑顔が見たい。けれど分かるのだ。それのみ考えていても、本当に欲しい笑顔を見せてはもらえない。
なにが一番大切なのかを心の中心に置くのだ。そのためにどうすることが最も良いのか、考えなければならない。感覚任せで突っ走ってはいけない。やるべきことは多いのだ。落ち着いて、あやまたずに目的を達するのだ。
私ははっきりと自覚している。
あのとき―――我が番と思いのたけを吐き出し合い、鼻を擦り合った、あのときから、私は変わった。
この身体は軽やかに動く。心も自由になった。自分の思うようにするのだと、なんの躊躇いもなく思える。
腹の底に積り溜まっていた汚泥が一掃され、この身が自制していたものすべてが取り払われた感覚。望みを叶えるため、心のまま偽らずに行動する。それだけが重要になった。
あのときから心の奥底で叫び続けている望み。
立ち止まってなどいられない。
けれど、やるべきをやらないことで周囲に不審を与えるわけにもいかない。そろそろ月が昇るのだ。建屋に行って仕事をしなければ。
ベータ筆頭の元へ行き指示が下されれば、シグマの仕事に縛られることは無くなるだろう。けれどまだ正式に指示されたわけではない。今の私は何も知らず、何も計画していない、そう周囲に思わせるには、何食わぬ顔で仕事をする必要がある。
務めをおろそかにして、目的達成の障害となる愚は避けるべき。建屋へ行き、匂いにも態度にも出さずに仕事をするのだ。焦りは抑えなければならない。
寝床の中で丸くなったまま唇を噛む。そろそろこの気持ち良い寝床を出て建屋に向かうのだと言い聞かせていると、近づく気配を感じ取った。
カイではない。ルウでもない。
ベータ三席だ。
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