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億劫な気持ちを押し殺し、寝床から出て棲まいの前に立って待つ。すぐに姿を現した三席は私の前に立ち、厳しい顔で声をかけてきた。
「アルファより命があった」
「……なんでしょう? これから建屋に行くのですが」
三席が首を振り、ニヤリと笑った。
「シグマの建屋へ行く必要はない。しばらくの間」
「はい?」
何かしたかと瞬時焦る。だがなんだろう? 今目立つようなことは避けたい……いや。
笑みを張り付かせた顔のまま、自らに落ち着けと言い聞かせる。
「……あの、なにか不手際があったでしょうか? ならすぐに埋め合わせを」
「そうじゃない」
思わず、ふう、と深い息が漏れる。
「おまえは違う仕事を命じられた」
「……違う仕事、ですか?」
軽侮を隠そうともせず、にやにやと見下す目線を向けてきたが、却って冷静に成れた。いつものこと、私が狼狽すれば喜ぶのだ、こいつは。
……うん、落ち着いてきた。
けれど焦る匂いが漏れてしまった。今も漏れている?
いや、大丈夫だ。三席のにやけた表情も匂いも、私を侮ったまま。そうだ、仕事の不手際で焦ったと思っている。それで満足しているのだ。大丈夫だ。
「次の夜、月が上がる前にうちの筆頭の所へ行くように。カイ二席とルウ四席も連れて来い」
「……どういうことです?」
「詳しくは筆頭から聞け。ルウ筆頭にも話を通しておく……む」
言葉を切り、私を見た三席は、少し考えた後ニヤニヤ笑いを深めた。
「よし、おまえも来い」
「いいですけど、なんなのです? どこへ行くのですか」
私が問うと、顔をしかめる。
「出たな理屈屋。その煩わしいくちを閉じておけ」
くるりと森に分け入っていく背を、くちを閉じて追いつつ、思わず苦笑してしまった。
こいつだけではない、シグマを侮る人狼は多いのだ。そのうえ『理屈屋』でどの人狼に対しても疑問があれば問い返す私を特に忌む人狼は多い。そのせいで上位を認めぬ奴と思われているのも分かっている。
上位に命を受ければ黙って従う。人狼ならそうあるべき。多くがそう考えているのに、私はつい聞いてしまう。そしてたいてい答えてもらえず、こう言われる。
『黙って従え』
そういえばベータ筆頭は違う。幼い頃から疑問を向けてもなぜか嫌な顔はしないのだ。
まあ答えは返らないのだけれど、なぜだろう。今度聞いてみようか。しかし無自覚だとしたら藪蛇になる可能性もある。『今後は何も言うな』と制されては意味が無い。それとなく聞けるときまで黙っていたほうが。いや……
ふうと息を吐き、小さく頭を振った。そんなこと、今はどうでも良いではないか。しっかりしろ。
頭の働きが鈍っているようだ。疲れているのかもしれない。だが今は一瞬の気の緩みも許されない。
気を引き締め、息を整えた。
しばらく進むと、多数の人狼の気配がしてくる。
三席を追っていると、森がぽっかりと開けた。巣が二つは建てられそうなほどの広さに、十数匹の人狼が集まっている。
ルウたちだ。四席を任じられた馴染みもいた。しかしルウたちはこちらを見ていない。中心に立つルウ筆頭だけがベータ三席に目を向けているが、従うルウたちは膝を折り、顔と耳を筆頭に向けている。
ふと、みなが同じタイミングで小さく頷いた。筆頭が小さく指を振ると、一斉に背を丸め従う意思を見せる。
言葉は交わされていないのに筆頭の意を汲んでいるように見える。ルウだけが分かる何かがあるのだろうか。
「ルウよ。アルファよりの言葉を伝える」
ベータ三席がルウ筆頭に声をかけた。ルウたちの意識が一気に向く。
「しばらくの間、四席をこちらで使う。カイ二席と、この」
言葉を切って、三席は私の腕をつかみ、ルウたちの前に押し出した。ルウたちの意識が私に向けられる。
「……シグマ七席も共に。なにがあろうと介入は許さぬ」
ルウ筆頭が口を歪めて笑い、四席が目を丸くした。思わず笑いかけたけれど反応は無く、他のルウが何匹か顔をしかめただけだった。
筆頭は目を伏せ、小さく頷いて了承を伝えると、次いで私に目を向け、ククッと笑った。
「おまえか、理屈屋」
侮蔑に彩られた顔だ。
「ふん、シグマの七席とはいいザマだ。まあおまえには似合いか」
私はくちを開かずに笑みを返した。こういう扱いは珍しくない。郷の人狼たちにとって、シグマは最も軽んじる階位なのだ。
「反論もなしか」
そう吐き出す筆頭は怒りにも似た表情を浮かべていた。
俊足で鼻や耳が利き、持久力に優れた人狼。職務に忠実で上位に従順な人狼らしい人狼たちが受ける階位がルウだ。郷に肉を齎す階位であり、子狼が一度は憧れる階位でもある。
俊敏で身体能力に優れたものばかり。人狼として優れている己に誇りを持ち、能力が劣るものを軽んじて見下す。幼い頃からそれが当然の人狼ばかりが集まっているのが、狩りという階位なのだ。
「くちは立っても意気地が無い、まったく恥ずべきものよな、おまえらは」
吐き出すように言ったルウ筆頭は、三席に目を向ける。私のことは無視することにしたらしい。その方がありがたい。ルウたちの意識も筆頭に戻ったようで、私に向いていた圧が無くなった。
するとベータ三席は身を返し、その場を後にする。私もその背を追って森に入った。四席が気づかわしげな匂いを漏らしている。ルウならみな、その匂いに気づくだろう。何か言われていないといいが。
四席は私の能力が低くないことも足が速いことも知っている。共に遊んでいればおのずと知れることだ。
けれどわざわざ能力を見せつけたことはないので、他の人狼は知らない。みなが知っている私は、どんな人狼に対しても問いを向け、答えるまで付きまとう『理屈屋』だ。
「……あいつは良いやつだな」
「ルウ四席ですか? はい、そう思います」
私が答えると、ベータ三席は顔をしかめた。
なぜ私をこの場に連れて来たのか、分からないでもない。このベータも私を侮っていて、自分の立場を理解しろとでも思っているのだ。そして私が平気な顔をして、匂いも気配も怖気ていないのが面白くない。
「おまえは驕らないことだ」
別に驕ってはいない。だがそう見えるらしいということは知っている。しばしば言われるのだ。威張っているとか偉そうだとか。
私にはそんなつもりがない。つまり言いがかりでしかないので気にしていないし、こういうときは、いつも笑みでまっすぐ見返すことにしている。
「ふん。いいか、必ず月が昇る前に行くように。あの四席とカイ二席にも伝えろ。いいな」
「はい」
私は目線を下げずに笑みで答えた。敬意を示す必要を感じないからだ。
面白くなさそうに鼻を鳴らし、走り去る背を追わずに、私は自分の棲まいへと向かう。
人狼はみな粛々と上位に従い疑問を持たない。だから『理屈屋』を嫌うものは少なくない。けれど私は疑問を持つ自らに疑問を持ったことがないのだ。
知りたい、知らねばという欲求は私の奥底から湧き出でるもの。本能的にそう思い行動してしまう。かなり強い衝動であり、こうまで強いと精霊により与えられた何かなのだろうと思わざるを得ない。
精霊に望まれているのなら従うまでだ。誰に何を言われようと気にならないし、シグマの階位を得たことも、今となっては異存はない。常に知りたいと願う私には合っていると納得している。
上位に対して思う所はあるが、やはり精霊は適した階位を与えるのだなと納得したものだ。
私は今まで人狼や郷の掟に従ってきた。精霊に疑問を持ったこともない。みなと少し違うとしても、私は人狼として正しく生きて来た。
けれど番えぬ番と出会わせたのが精霊だとするなら、これは別だ。たとえ精霊の思召しだろうが、最愛を悲しませるなら私は抗う。
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