38人が本棚に入れています
本棚に追加
プロローグ
太陽が朱を帯び、遠く見える山の端に降りていく。
雲も、山も、大地も木々も、乾いた風に煽られた土埃も、すべて同じく朱に染まっていた。
遥か上に目を転じると、空は薄紫から薄蒼、そして濃い蒼へと変わりゆき、満月に少し足りない白い月が見える。また地上に目を戻すと、道は森のはざまに入っていくところだった。
「もうすぐだよ」
声をかけてきたのは、旅慣れた風の若い男だ。
「そうなんですか」
「道の先に外壁が見えてくるから」
私は窓を大きく開いて身を乗り出し、道の先を見ようとした。
同時に強い風と土が吹き込んで、「ぁっ」小さな声が上がる。
「すみません」
乗合馬車の鎧戸をそっと閉じる。風は治まり、灯りの無い箱馬車の中は薄暗くなった。
「いいんだよ、開けなさい」
人の好さげな声が返る。さっき声を上げた初老の女だ。
「ごめんねえ、つい声出ちゃって」
「まったくだ。大げさなんだよお前は。開けとけ開けとけ。きれいな夕暮れじゃないか」
女と同じ年ごろの男が、私の肩を軽く叩きながら笑いかけてくる。
そう言われたので、私は再び窓の鎧戸を開いた。また土埃が吹き込んできたが声は上がらず、女の手が後ろから私の頭の毛を撫でた。
この二人は夫婦で、長く働いていた町から故郷に戻る旅なのだと聞いている。
次に止まる村で馬車を降りると言ってから、こういう言動が多いのだが、たまたま同じ馬車でひと月近く旅をして来ただけだ。これが別れを惜しむというものなのだろうか。
「もうすぐ故郷だと思ったら、待ちきれなくなったか?」
「親御さんも待ちきれんだろうさ」
亡くした子供と年が近いと言っていたけれど、私はこの夫婦の子供ではない。なのに彼らは私を幼いもの、守るべきものと思っているようだった。私の見た目が若く体型が細いからだろうか。それとも王都で学んで故郷に帰るという話をしたからだろうか。こういうのも『ひと族』というものなのだろうか。
道は森を抜け、畑が広がっていた。農夫や牧夫、荷車などが町に向かっているのが見える。
ひと族の町は、外壁と呼ばれる壁に囲まれている。夜になると門が閉じられて、入れてもらうのに一苦労するそうだ。
農夫たちの町へ向かう足取りが忙しない様子なのは、腹が減って早くメシにありつきたいのか。それとも閉門に間に合わないのか。
徒歩で行くには遠い場所へ向かうときに使われるのが乗合馬車だが、せいぜいふたつ隣の町までしか行かないので、遠くまで行きたい場合は町ごとに馬車を乗り換える。その町でちょうど良い馬車がなければ泊まる。一泊では済まず、二~三日待つこともある。
馬が疲れれば休息をとるし、天候が悪ければ町へ戻るか、村に入って動かない。
馬車の旅は、とてもゆっくり進むのだ。王都からここに至るまで、ひと月ほどかかった。
やがて馬車は門をくぐり、近くにある “乗り降り場”に止まった。水桶を持った男が近づいて来る。御者が下りて外から扉を開くと、車内に朱色の陽光が入り、乾いた風が吹き抜けた。
降りると靴のかかとが硬い音を立てたのは、煉瓦が敷いてあるからか。
———ほんの微かに、懐かしい匂いがする。
「家はまだ遠いのか? だいぶ歩くのかい?」
「もうすぐ暗くなっちまう。誰かの荷車に乗せてもらえないかね。ダメでも馬借りれば……」
私は笑みで頷く。
御者が馬に水を与えている。なんとか馬を怯えさせないで済んだ、と思い見ていると、夫婦も馬車を降りてきて、代わるがわるに私を抱きしめ、頭を撫でる。
「あたしは心配だよ」
「ああ、馬は乗れるのかい?」
私はまた頷いた。
「明るいうちに着かないなら無理せずに、ここに泊まらせてもらうんだよ」
「そうだな、役場で聞いてみりゃいい」
私は頷き、もう二度と会うことのない夫婦に笑みで声を返す。
「ありがとう。そうします」
「うんうん、その方が良いよ」
肩を叩かれ、素直に頷く。御者が出発すると声をかけてきて、彼らは馬車に乗り込んだ。今夜は隣の町まで行く予定と聞いている。急がねば暗くなるのだろう。
動き出した馬車から、夫婦が手を振ってきた。私も手を振り返して見送る。
振り返ると、水桶を運んでいた男がニコニコ私を見ていた。
「ずいぶん可愛がられてるな」
「ええ、優しくしてもらいました」
「人に好かれるのはいいことさ。荷物は? それだけかい?」
肩にかけた袋一つを見て、男は心配そうに言った。
「はい。貧乏学生ですから、ほぼ着のみ着のままです」
「そうかい、大変なんだなあ。王都で学んできたんだって? どれくらい親元を離れてたんだい?」
御者から私のことを聞いたのだろう。私は愛想よい笑顔で声を返す。
「三年です」
「へえ~、たいしたもんだ。親御さんもさぞ鼻が高いだろうよ」
曖昧に笑んで手を振り、私は門に向かって歩き始めた。
「おい、行く先が分かれば荷馬車を紹介するぞ」
「ありがとう、でも大丈夫。行くところは決まってます」
「決まってるってどこだ? この辺りにそんなところがあるのか?」
それには答えず、私は曖昧に笑んで礼だけ返すと町を出た。
歩くうちに空は深い蒼になった。まだ少し欠けている月の優しい黄色。
私は道を逸れて森に入り、走った。
繁茂した草も、うねる木の根も、障害にならない。
私は走る。懐かしい匂いのする方へ。私の属する郷へ。
私は人狼だ。
ひと族とは違う理と規律の下に生きるもの。我々を『森のもの』と呼ぶ種族もいる。
成人の儀を越えて成獣となった人狼は、精霊より階位を得て、狼の形とひと族の形とを自在に使えるようになる。郷と森を守り育むため、群れの一員として担う役目を得てはじめて、人狼として一人前となるのだ。
私は成人の儀で『語り部』の階位を得た。
そしてひと族について学ぶため、冬三つを越えて春の日差しが落ちる季節まで、王都の学院で過ごした。
ひと族を学ばなければならなかったからだ。
濃密な森の風が、走る私を包み込む。あらゆる生き物の生気を、気配を感じ取る。
我が郷とは違う。完全に受け入れられてはいない。それでも精霊の息吹に全身が洗われるようだ。
私は微笑む。
勉めを全うした誇らしさと安堵。
緊張を強いられていた身体は、本来の働きを抑えるのをやめる。
私の身体は躍動を抑えない。
私の鼻は思う存分匂いを受け止める。
私の耳は些細な生き物のたてる音を拾う。
そしてなにより心を震わせるのは、遠くより香る懐かしい郷の森の匂い。
どれほど懐かしく思ったか。あの安らげる森から離れていた間、ひと族の飼う馬や犬を怯えさせぬよう、叶う限り気配を殺して過ごした。ひと族に合わせて飲み食いした。話を合わせ、表情を作り、満月が近くなれば起こる衝動と戦い―――
ようやく終わった。馬車を降りてひと族に別れを告げた、あの時までが私の勉めだった。
走った方が早いのに、あえて乗合馬車を利用したのは、学生以外のひと族というものを知る良い機会と考えたからであり、成果はあった。いくつかの疑問を埋めることができたのだ。
私は勉めを全うした。もう郷に戻れるのだ。本能の呼びかけに抗う必要も、常に拾ってしまう変な臭いやおかしな気配に悩まされることもない。
ひと族が朝から昼までかける距離を、人狼は数分で走り抜ける。
だが森の息吹で漲るものは、まだ足りない、もっと、と全身に呼び掛けてくる。走るだけでは満たされない。私は湧き出でる欲望に抗わず、足を止めた。
すでに陽は落ちて、満月にふたつ足りない月が木々の剣先の合間に見える。全身の毛が逆立つような飢えを感じつつ、ひと族の衣服と靴を脱いで袋に突っ込む。それを肩に背負うと、大きく息を吸い、目を閉じた。
人狼の季節は冬で始まる。そしてひと族の言う一年を冬の数で表す。
冬三つ越える間、抑えていた。人狼の本能に従うことを。
……感じ取れ。精霊の息吹を
もう一度、深く息を吸う。感じ取ったものを体内に迎え入れ、本来の力に身を任せ———満ちる、漲る、それを……巡らせる。爪の先、毛の先まで。
数瞬の後、思わず遠吠えをしたくなるほどの解放感が全身を突き抜ける。
ああ、この感覚。この充足感。
目を開いたとき、私は淡い金色の狼となっていた。
はらわたから毛の先まで、耳や口から足の爪の先まで、髭の一本まですべてが精霊のものであり、私自身である。そう感じることに深い歓びがあり、漲る力の開放を求めて喉を震わせたくなるが、なんとか堪えて全身を震わせた。
ここはまだ我が森ではない。ここで人狼が遠吠えなどすれば示威行為と取られかねない。この森を守るものどもが狼の遠吠えを聞き逃すなどありえないのだから。
身体の奥底から喉を響かせたくなる衝動を抑え、私は舌をだらりと伸ばし、ハアハアと息を吐く。朽ちた草葉に柔らかく覆われた地面を後足で軽く蹴り、飛んだ。木の枝を飛び越え、四つ足で着地。踏みしめる感覚に問題はない。
スンと鼻を鳴らす。懐かしい郷の匂い。まだ遠いそれに向かって、私は走り出す。繁茂する草を蹴散らし、全身を使って、全速力で。ああ、なんと心地よいのだろう。
冬三つ越える間、変転していなかった。ゆえに体躯を思う存分動かせるか若干の不安があった。しかし杞憂だったようだ。
髭が、毛が、足裏が。
森を、水を、土を、精霊の息吹を、全身で感じ取る。
時に木肌を蹴り、時に川を飛び越えた。とてつもない快感、充足感。
やはりこれこそが本来の姿なのだという実感と歓び。
森を走り抜けること自体が、私にとって解放だ。
人狼は、群れで一つの生き物。
精霊とアルファの求めに応じ、それぞれが務めを果たすことで郷は成り立つ。
行動原理は、序列が上のものに従うこと、そして番と共にあること、この二つ。だから番と己が役目以外考えない。
厳密に定められた階位があり、その中に序列がある。
精霊師、樵、癒し、大工、森林、守り、細工師、狩り、語り部、織り、探り、採取。
それぞれ階位の筆頭はアルファの命を下位に伝え、遺漏なく勉めを果たせるよう導く。すべての人狼は務めを果たすが、当然のことだからそうするだけで、それを他狼に誇ることはない。それぞれの務めの知識は他の役目を負うものにとって知る必要のないこと。上位に従うことこそ正しい。
すべてを知るのはアルファのみ。それが群れであり、人狼なのだ。
そのように考えず従う人狼の中で、私の階位、語り部は特殊である。考えるのが仕事なのだ。
調べて知り、記憶し、知識を知恵と昇華させ、郷に役立てるべく考える。
階位を得ると、若いシグマは読み解くことと正確に記すことから学ばねばならない。仔狼のころに簡単な読み書きは習うけれど、それ以上学ぶ人狼は少ない。シグマの階位を得るものですら例外ではないのだ。
しかし私は成獣になる前から書物を読むのが好きで、地面に絵本を描いているような、いわゆる変わり種だった。ゆえに最初から、古くて朽ちそうな書物を書き改める仕事を命じられた。
学び努めるなか、私は気づいた。
以前はもたらされていた他種族についての情報が、いくつもの冬を越える間、入ってきていない。
森に出入りする『商人』よりもたらされるので、ひと族についてだけは多少あるが、それ以外の種族についてはまったく無かった。
上位に問うて知ったのは、かつて情報を集める務めを負っていた一匹のシグマがいたこと。そして冬を十五も数えるほど前に失われたこと。
そのシグマは探りと行動を共にすることが多く、郷にいる時間が少なかったからか、幼い狼を教え導く仕事には携わっていなかったからか、幼かった私は姿も匂いも覚えていないが、それが失われた後、筆頭は継ぐものを選ばなかったのだろう。
指示を忘れているのかもしれない。いや、それぞれ仕事があって、新たな務めを抱えることができなかったのではないか。
けれど、今その役目が居ないなら、私が継げばよいのではないか。
そう考え、私はシグマ筆頭に伝えた。
シグマの役目は郷に知恵と知識をもたらすこと。ひと族について、近隣に棲まう山のものども、湖のものどもについて、そして他の人狼が治める郷について学び、知識を蓄えるべきだ。その役目は自分が負うことができる。
すると筆頭は、呆れたように首を振った。
「精霊がそなたに語り部を与えたのだが、……なんとも人狼らしからぬことよ」
私は幼狼の頃から、疑問を感じれば相手が成獣であろうと問いを向けていた。いつからか、『皮肉屋』『理屈屋』そんなあだ名をつけられた。階位を得てから問いを向けることは少なくなったが、自分で調べればよいと考えるようになっただけだ。今でも疑問を感じることは多い。
そしてこのとき、私は筆頭の言葉にも態度にも疑問を感じた。
どこが人狼らしからぬことなのか。私は精霊に言祝がれ受けた階位に従っている。筆頭の命じたとおり学んで生まれた疑問から、郷のためにできることがあると考えることの、どこが。
「アルファは仰せなのだ。優れた存在である我ら人狼が、ひと族や他種族など気にする必要はない、とな」
アルファは仔狼を教え導くことに重きを置き、それ以外にかまけることを良しとしない。他種族のことなど捨て置けと言ったらしい。
「ですが、私はまだ役目を仰せつかっておりません。郷の仕事に支障なく学べます」
「……それもまた、精霊の導きやもしれぬ」
困ったように頷いたが、筆頭は許可した。そして私は『商人』の伝手を使って、ひと族の王都へ向かったのだ。
まずは、ひと族について学ぶために。
最初のコメントを投稿しよう!