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棲まい近くに来ると、カイの匂いがした。
もう戻ってきているらしい。
ふう、と息を吐き、心を引き締める。
たとえカイ相手だろうと油断はしない。なにがきっかけで望みが潰えるか分からないのだ。
私はいつもの笑みを顔に張り付け、疲労の匂いを漏らさぬよう細心の注意を払いながら自らの棲まいへと足を向けた。
「シグマ、どこ行ってた」
駆け寄ってきたカイは、いつものように棲まいの前で茶を沸かしていたようだった。
「ベータ三席に呼ばれたんです。待たせてしまったようですね」
「え。……なんか?」
カイから心配そうな匂いが漏れる。
シグマを侮る人狼がいるのはカイも知っている。その中でも特に当たりがきついのがベータ三席であることも、分かっているのだろう。
「ルウ筆頭に話を通すのに私もいた方が良いと。……大丈夫ですよ」
「……ほんと、に?」
「はい、本当です。それにシグマの仕事はしなくて良いそうです」
「えっ! だ、だいじょぶ? シグマ、じゃ、なく、なる……?」
「違いますよ。カイ筆頭を探しに行く間だけです」
「あ……ごめん」
しゅん、とカイは目を落とす。
「しごと、の、じゃま……」
くすっと笑ってしまいつつ、カイの頭の毛を撫でてやる。
「そんなことはないです。私も心配ですし」
私は私の目的のために動いているに過ぎない。こんなふうにカイが罪悪感を持つことも利用してやるつもりなのだ。
「それと次の月が昇る前にベータ筆頭の棲まいの前まで来るよう、言われました。ルウにも伝えなければ。もちろんカイ、あなたもですよ」
「え」
驚いて動きを止めるカイに笑いつつ声を返す。
「お茶を入れてくれてるんでしょう?」
ハッとして、カイは棲まいの前まで行き、座るよう私に促すと、茶を満たした湯呑を渡してくれた。良い香りがして、思わず頬が緩む。以前、私がおいしいと言った茶だ。
「ありがとうございます。いただきます」
暖かい茶が胸の奥まで染み入るようで、ホッとする。
「あ! じ、じゃ、」
慌てたように声を上げたカイに、少し驚いた。こんなふうに声を上げることはまずないのだ。
「なんです? どうしました?」
「急がなくていい、シグマ」
「なにを、ですか?」
「じゃ、じゃシグマ休まないと」
「はい?」
「建屋行かない、で、向こう行けるの夜三つ後、でしょ?」
「そうですけど」
カイは満足げにうんうん頷き、ニッと笑った。
「シグマ休む。うん。だいじょぶ」
「大丈夫って、カイ?」
なぜか上機嫌のカイは、私から湯呑を奪うと腕をつかみ、棲まいの中へ入るようにぐいぐい引っ張った。
「カイ? なんです?」
そのまま寝床に入るよう促される。しかしわけが分からないのは嫌だ。
「どうしたっていうんです? まだ話が」
「はなし、あと。寝て」
さらにグイグイ草の山に押し込まれる。
「まだ月は高い。眠くはありません」
「いいの。寝て」
「ですから」
「寝て」
仕方なく、ため息を吐きながら寝床に潜り込む。するとカイの手が、子狼にするように頭の毛を撫でた。
「カイ?」
「目、閉じて」
見張られているので仕方なく目を閉じる。しかし先ほど休もうとしても気が休まらず眠気など来なかったのだ。眠れるわけがない。
それでもカイの手は毛を撫で続けた。目を開いても声を返しても「寝て」と言われて溜息まじりに従っているうち、意識は闇に落ちた。
◆ ◇ ◆
―――匂い。懐かしい――
『言い出し……きかな……菫の白蜜……し……ない』
―――新芽の曙光?
『思うとお……す……い。わたし……う……けれ……』
―――ああ、顔が良く、分からない。
『いつだっ……見てい……い……よ』
―――声が、ぐにゃぐにゃと歪んで……え? どんな声だった?
『す……みつ……げ……で……』
―――匂いも、……分からない、忘れた……のか。
『…ば……しあわ……なっ……』
―――消えていく……大好きだった……新芽の……
◆ ◇ ◆
目が覚めると、棲まいの前でカイが茶沸かしているのが分かった。
夢を見ていたような気がする。よく覚えていないけれど、なんだかすっきりしている。
重く降り積もっていたような疲れが解消されているのを、自覚せざるを得なかった。やはり、ぐっすり眠ったからだろう。
隠していたつもりだったが、私の疲労をカイは察知していて、強制的に休まされたのだ。
苦笑まじりのため息をついて寝床を出る。
棲まいを出ると、太陽は西の空にあった。昼は過ぎているようで、ずいぶん長く眠っていたのだと知れた。
待ち構えていたカイが、茶と干し果実を勧めてくる。素直に受け取って茶をすすり、果実を齧りつつ伺う。カイは眠ったのだろうか。成獣は数夜眠らずとも問題ないが……気になる。
けれどカイはどこか自慢げに、ルウには伝えておいた、月が上がる頃に来ると言った。嬉しそうな匂いと表情に、思わず笑ってしまう。顔色も良く機嫌も良い。無理はしていないようだとホッとした。
すると持ってきた道具を見せてきた。大きな袋に詰め込まれたそれを一つ一つ見せて、説明してくれる
「ずいぶんたくさん持ってきましたね」
「ん。しまっておいたの、持ってきた」
いつもはどもりがちなのに、この話をするときは流ちょうなのが面白くて色々質問する。カイも嬉しそうだし、どれも工夫が凝らしてあって興味深い。いちいち感心していると、カイは真剣な顔で聞いてきた。
「シグマ、どれ、使う? 作戦は」
「……落ち着いて、カイ。おかげで休めましたし、ゆっくり考えましょう」
頭の毛を撫でてやると、カイの肩や腕に籠っていた力が抜けていく。
「細かいことはベータ筆頭の話を聞いてからです」
「ん」
現段階で詳細を詰める必要はない。
私の提案が通るなら、正面から黄金の郷へ入り、交渉することになるだろう。密かに探ることにはならない可能性もある。
けれど事前に動いていたことは報せない。鳥やベータ三席を使ったことから、ベータ筆頭が私と直接話したことを伏せたがっていると判断できるからだ。
カイにどこまで話せるかは、今日の会談で判断する。
「せっかく道具を持って来てくれたし、良ければここに置いておきますか?」
寝床以外何もない私の棲まいには、かなり余裕がある。うんうんと頷き、カイは持ってきた道具を中に運び込み、なにやら整理して満足そうにしていた。
「ルウが来るまで、いくつか聞きたいのですが」
「ん」
「話せないこともありますよね?」
「話せない?」
「カイの仕事の内容です。あなたの判断で話せることだけでも、聞きたいのです」
「ん~、……ん」
神妙な顔で頷いたカイにいくつか質問を向けたが、どこに何を調べに行ったかについては殆ど聞けなかった。どこまで話してよいか判断が難しいようだ。
困り顔になって悩み始めたので、カイの仕事を始めた頃のことを聞いてみる。
訓練や失敗したことなど、いくつか質問をすると、時に恥ずかしそうに、時に自慢げに話し始めた。階位ごとに覚えることも訓練も違うのだなと分かり、とても興味深かったし、なにより嬉しかった。仕事の話になるとカイが流暢になるらしいと分かったからだ。
能力が劣っているわけでもないのにカイを軽んじる輩がいるのを知っている。そいつらにこのカイを見せてやりたい。そんなこと、カイは望まないだろうけれど。
「おーう!」
太陽が大分傾いたころルウ四席が来た。
「おまえらなんで巣の前に!? 中入んねーのかよ!」
「私の棲まいは何もないので、カイがいろいろ持って来てくれるんです」
「炉、おれ、つくった」
「だからなんで前に! いいけど!」
からっと笑うルウに、カイは茶と干し果実を勧めたが、ルウは仕事の前は喰わないと茶だけをすすり、「なんか変な味」と言ってカイに頭を殴られたりしつつ、ルウの仕事の話も聞いてみる。
ルウには秘密にするべきは無いようで、何でも話す。というかほぼほぼ自慢話に終始したのだが、そろそろ月が昇ると言うと顔を引き締め、三匹でベータ筆頭の棲まいへ向かった。
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