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「本題、ですか」
「そうだ。お前とじっくり話す必要を感じていてな」
ぎくり、と心臓が騒いだ。
落ち着け。まだなにも露見していない。気づかれるはずが無い。平常心だ。
「ふむ。心当たりがないわけではないと」
「いえ……」
気取られた。心臓のざわめき、焦り、もしかしたら怖れ、も。
「まあいい」
フッと明るい緑の目を細め、ベータ筆頭は話し始めた。
「人狼は階位に見合う加護を得る。シグマはそれが無い……と、言われている。〝なりそこない〟と嘲るものもいる」
「……はい。良く知っています」
筆頭と二席以外のシグマは日常的にそう言われるし、足蹴にされることもある。
だから人狼が集まる場では目を伏せくちを閉じる。他の人狼と顔を合わせる機を避けるため、太陽が高いうちに働く。ルウが戻った時も、上位が肉を喰らい終えて去るまで待つことすらある。
幼狼や子狼の養育に携わるシグマですら、成獣が集まればそういう扱いになりがちで、シグマが元気なのは建屋の中だけだ。
「シグマに覇気がないのも理由のひとつだろうが、弱者に要因を求め責めるのも酷だ」
ポツンと一つだけ建つ棲まいを選び、不用意な接触を避ける。いや、お互い避けている。
私が棲まいを選ぶとき、
「シグマはこういうのが好みなんだろ」
とカッパが勧めてきたので、深く考えずに決めたのだが、成獣となったばかりのカッパに他意は無かっただろう。おそらく上位にそう教えられたのだ。
「とはいえ咎め立ては困難。人狼としての矜持を誇ることは正しいのだ」
そうだ。ルウたちや三番手が間違っていると断ずるのは難しい。彼らの価値観は人狼として間違ってはいないのだ。だがシグマが弱者というのも違う気がする。
「確かに誰が悪いという話ではないですね。けれどシグマ自体にも問題はあると思っています」
幼い頃より虐げられ続けたとしても、それと務めに真摯に当たろうとしないのは別の話だ。
「同意する。個に責を求めるべきではない。問題は根本的な所にあり、一朝一夕に改善を見るは困難」
頷いた私に、ベータ筆頭はフッとくちもとだけで笑んだ。
「だがな、この身の知るシグマは違ったのだよ。堂々たる一匹の成獣、いや、むしろ他を従えているように見えたな」
ハッとして明るい緑の目を見上げる。
「かのシグマは、常に胸を張っていた。騒がしいほどおしゃべりでバカ話に大笑いする、ただの能天気かと思えば、いったん決めた事は絶対に成し遂げると突き進む。アルファからの筆頭の打診を〝面倒は嫌だ〟と蹴り、先代アルファを苦笑させていたがな、周りを巻き込み、いくつか大きなことを成した。子狼にも好かれていた。この身もその一匹よ」
おそらくそれは、アルファの館やイプシロンとシグマの建屋を設計したシグマなのだろう。老いたものは時々、みなで力を合わせ働いたことを懐かしむ発言をする。
「従うことを是とする人狼にはできぬこと。それこそがシグマの役割。この身はそう理解している。あれが正しいシグマの姿である」
ベータ筆頭はククッと笑い、笑み細めた目を私に向ける。
「おまえは、かのシグマに似たところがある」
「……そうですか」
「だが、先代の御代を知るものの多くは失われ、残るものも老いた。若いものは、かのシグマを知らぬのだ」
確かに、シグマへの当たりが強いのは比較的若い世代だ。ルウ筆頭も、このベータ筆頭より冬を十五越えるほど年下なはず。
「正しい形に復するには、先頭に立つものが必要だろう。臆する心を持たず、逆風をものともせぬものが」
「……それが私だと?」
「そう思っていたのだが、な」
「だから私に、思う所を信じて動けと?」
ベータ筆頭は小さく頷く。
ストンと納得が落ちた。
が、苛立ちも湧いた。分かりにく過ぎる。
意味深なあの言葉だけで、そこまで通じるわけがない。深読みしていた時間を空費させられた。考えることは山ほどあるというのに。
視線に険を乗せその想いを伝えようとしたが、見上げた明るい緑の瞳は伏せられていた。
「ときに、今の郷に思うところは無いか? 我が郷の現状をどう思う」
「どう……とは?」
警戒心が高まる。なにを聞きたい?
「深く考えずともよい。思うところは無いか」
思う所ならたくさんある。
考えないシグマたち。いやシグマに限らず、何も考えない人狼が多すぎる。シグマ筆頭の匂いも気になる。カイを使わず対外に興味示さぬアルファ。怪しいガンマ。オメガ。そして―――番と出会えたのに番えぬ私。
だがいちいち思わせぶりなこのベータ筆頭を信用できるのか? 無理だ。できるわけがない。
「いろいろありそうだが……言いにくいようだな」
「いえ、そういうわけでは」
フッと溜息を吐いたベータ筆頭の目が、昏い色を帯びた。
「我がアルファの御代は二十七の冬を越えた。時はどんな存在にも公平で正しいという。なら、これも正しい流れかと思っている。……ガンマはアルファに言ったな。次代を選べと」
「……はい」
ドキン、と心臓が大きく打った。
「次代が選ばれたなら、この身はアルファと共に滅ぶ」
「え、次代のアルファに仕えるのでは……」
「ベータ筆頭とはそういうものだ。アルファと共に在り、アルファに殉ずる。他の役目とは根本が違う」
知らなかった。
それではベータ筆頭はアルファの為だけに在るということになる。
アルファに心酔していなければ務まらないだろう。
「それが精霊とアルファの望みである。怯むところはない。だが、郷の行く末は気になる。おまえは……確実に次代に絡むだろう」
「う、ぅわたし……が……?」
次代、と言った。私が、次代に、絡む? この前危うい発言をしたからか? 今のアルファが続かないかもしれない、と匂わせた、あれのせいか? いや落ち着け。
「けれどアルファは、まだ次代を選んではいないですよね?」
「そも、精霊の呼ぶところによりアルファは現れる。精霊に我がアルファの威光は及ばぬのよ」
つまり、アルファがどう思おうが次代が出るときは出てしまう、ということ。―――そうか。
精霊が選ぶもの、なのか。アルファは。
「おまえは次代のアルファに従うべく、ここに在る。郷にとって必要な人狼、だがシグマ筆頭とはならぬ……と、思われる」
「なにを、ですからいったい」
私が何をしようとしているか、まさか分かっている? そんなはずはない、落ち着け。落ち着け。
「たとえば、ベータは郷外との交渉も担う」
「はい?」
ベータ? 今度はなんだ?
さきほどから動揺の匂いが抑えきれずに漏れている。感じたに違いない明るい緑の瞳が、面白そうに細まった。
「ひと里で暮らし、商人とのやり取りも慣れているおまえなら。他郷との交渉も、良い経験となるだろうよ」
「あの、なにを言っているのか……」
「この身の、単なる希望よ」
「希望……?」
「おまえならこの程度うまく収めてくれよう、とな。まあ無駄にはなるまい」
「いえ、あのもちろん、やり遂げるつもりですが……」
「なにかあれば、この身が出る。安んじて事に当たるがいい」
まるで庇護する上位のような物言い。今までこのような言い方をされたことは無かった。階位も違う私に、なぜ?
「……いったいあなたは、私をどう見ているのです?」
「うん?」
「そのように気にかけていただく理由が分かりません」
少し目を見開いてから、フッと明るい緑の目を細めたベータ筆頭は、思いがけず優しい表情になっていた。
「なに、たいしたことではない」
呟くような低い声。
「おまえたちは我が番が腹を痛めた子狼の友だった。いまだに仲が良い。この身には嬉しいことなのだ」
またドキンと跳ねた心臓に、ツキンと痛みが走る。
「……それは、もしかして、」
それはかすり傷がじくじく痛むのにも似た、あやふやな痛み。
「新芽の曙光……」
「その呼び名を決めたのは、我が番よ」
「…………」
まさか……そんなことがあるのか?
ずっと忘れていたのに、このところ夢に見たのは、ベータ筆頭と話したから? そのせいだったのか?
だが産んだ親との関係など希薄なものだ。みな、産んだ親のことなど興味が無いし知らないだろう。私もどの人狼が親なのか知らない。
「よく覚えている。あれは良くお前を褒めていた。とても賢く、足が速く、鼻も利くとな。あれと共に遊んでいたものどもを、どうにも他と同じには見れぬのよ」
変転を覚えた子狼は親に育まれる時期を終え、郷すべてに育まれる。眠るも喰らうもシグマや老いたものが見守り、子狼は自由に遊び眠り育っていく。
「子狼は郷すべてのものだ。贔屓など、してはならぬと分かってはいるが」
苦笑するベータ筆頭は、どこか寂しげな顔をしていた。
「あれが失われて、我が番は一気に弱り、老け込んだ。無理もない、と思うは番ゆえだろうという自覚はある」
人狼は孕みにくい。
生涯で子を得るのは、おおむね二度か三度。一度きりの雌もいる。たいてい双子か三つ子が産まれるが、幼いうちに失われる子狼は多い。無事成獣となるのは三匹に一匹とも言われる。
だがつまり、ベータ筆頭の番は病んでいるのだろう。
精神を病んでいる。でなければ失われた子狼に執着するなどありえない。
失われた人狼は精霊に言祝がれるのだ。それは喜ぶべきことであり、惜しむことは、逆に失われた人狼を汚す行為とも言える。
「我が番は、いまだに子狼の呼び名をくちにするのよ」
フッと笑んだ明るい緑の瞳に、暗い彩りが乗った。
「……若狼を呪い殺しそうな目で見ることもあってな。あれの友であった子狼が成長した姿を、見せたくはないのだ」
ベータ筆頭の棲まいに行ったとき、番の雌が素っ気なかったのを思い出す。シグマだから軽侮していると思って気にしなかったが、違ったのか。
「この身が滅びれば、我が番は寄る辺を無くす。さすれば生き永らえはすまい。それも、そう先のことではあるまいがな」
さっきの話に繋がった。
次代のアルファが選ばれたなら、ベータ筆頭はアルファと共に滅ぶ。
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