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 ベータ筆頭が「アルファの館へと向かう」と言ったとき、私は覚悟を決めて頷いた。  アルファに報告に行く。分かっていたことだ。  だから私は、服の中に小さなナイフを隠し持っている。  いざという時、平静を保つために。  何度も何度も必死に抑え込み、冷静になれと自らに言い聞かせていた。  そうしなければ、私は走り出してしまう。我が番の元へ。  その衝動は時を選ばず起こって、後先考えない行動を激しく促し、抑えるのは困難だった。  少しでも心や脳に空白があれば、そこに我が番の匂いや瞳や声や……そんな断片が入り込み、衝動を起こす。  行きたい。  最愛のもとへ。  走れ。  そんな声が私を突き動かそうとする。しかし従うわけにはいかない。  棲まいに飛び込んだところで、いるのは雌と子狼だ。それともアルファの後ろに控えている場へ行くのか? そうしてこの郷を離れ、二匹で睦みあうのか? いったいどこで? それで最愛が幸せに笑うのか?  冷静になれば、今そうすべきではないと分かる。なのに衝動は簡単に起こる。必死に自らへ言い聞かせて、それでも抑えきれずにナイフで腿や腕を突いて、痛みで意識を逸らしたこともあった。  だから私は、ずっと考え続けていた。  最愛の断片すら思い浮かべる隙が無いよう、考え続けた。  カイのこと、カイ筆頭のこと、ベータ筆頭、ルウ、私にかかわるすべての人狼、アルファ、オメガ(バカ)。やるべきこと、達成すべき道筋、望みをわがものとする為に必要なたくさんのこと。  私は考え続けていた。  けれどアルファの後ろには我が番がいる。そして私は、なにがあろうと平静を装い、湧き上がるさまざまを抑えて、平然と受け答えせねばならない。  できるだろうか、ではない。そうするしかないのだ。  そのためのナイフである。  冷静に立ち戻れるほどの痛みを我が身に与えれば、血の匂いが漏れ不審を買うだろう。けれど番であると露見するより、その方がずっとましだ。   ◆   ◇   ◆  扉を開いたベータ筆頭が、部屋に入っていく。  息を整え、覚悟を決めて私も続いた。  一段高い、アルファの席の後ろには……誰もいなかった。  すぐ横にオメガ(バカ)がいるだけ。他に人狼の姿は無い。平静を装って部屋に入ったが、胸は切なく傷んだ。相見(あいまみ)える機会を失したことに痛む胸。できれば一目だけでも……などと思っていた。我ながらおかしい。分かっている。  幸いにも、懸念が杞憂に終わったのだ。そう思うべきだ。  ベータ筆頭はまっすぐアルファの前まで進み、膝を折った。  ルウが慣れた様子で続き、ベータ筆頭の背後に控える形で片膝をついて、真直ぐアルファを見つめた。カイと私も真似て同じ姿勢をとる。 「ルウ、久しいな」 「はい! 秋以来っすね!」  アルファの声は、ざらついているように聞こえた。前と同じだ。 「変わらぬ様子で何よりだ。そちらがカイだな。此度は難儀を起こしてくれたが、良きように動かせると我がベータの言があるゆえ不問とする。励むように」 「……はい」  カイの頬が強張っている。緊張か? いや、怒りかも知れない。  アルファの目が私を見た。濃茶の瞳は、気のせいか膜がかかっているように見える。虹彩がぼやけて見えるのだ。どういうことだ? 「ふむ。それが、かのシグマか」 「はっ、ひと里に冬三つ赴いていたものです」  私がくちを開く前に、ベータ筆頭が答えた。  私は目を凝らしたが、やはり虹彩がはっきりしない。前きたときは、さほど直視もしていないけれど、そんな印象などなかった。 「シグマよ。此度の件、おまえなら果たせるとベータが言うのだ」 「期待に応えるべく励みます」 「ふうむ。自信があるようだな」 「やれることをやるまで。自信というほどのものはありません」  アルファは面白そうに目を細める。 「どうだ、ミュウ。こいつをどう思う」 「別に。なんか感じ悪いけど、なんとも思わないよ」 「そうか、よいよい」  軽い笑い声と共にミュウ、というかオメガ(バカ)の腰を引き寄せ、私を見るアルファの目は、やはりぼやけている、ように見える。  これはなんだ? 普通ではない。  アルファに何が起こっている? 「先ごろ、ガンマが来たとき、おまえもそこにいたな?」 「はい、シグマはすべて付き添うよう言われましたので」 「あれをどう思った?」 「どう、とは?」 「不敬と思わなんだか?」 「……ガンマは精霊の言葉を伝えると聞きます」 「だからなんだ」 「…………」  なんだと言われても。  下手なことを言ってバカに目を付けられると、面倒なことになりそう。何も言いたくない。  なので私はいつもの笑みで見返した。アルファも息を漏らすように、微かに笑う。 「ふっ、なぜ笑う」 「…………」  意味など無い。何も言いたくないから誤魔化しているだけだ。 「面白いやつ。愚かではなさそうだな。肝も据わっている」 「この者たちであれば、例の件、為せるかと」  ベータ筆頭が声を出すと、アルファの目は私から外れた。 「ふうむ。こ奴らには伝えたのか?」 「ありていに」 「ならば良かろう」  アルファは鷹揚に頷いて、手を振る。 「では、御前失礼いたします」  ベータ筆頭が立ち、ルウもぴょんと立ち上がる。カイと私もその場に立った。  手ぶりで鷹揚に退出を求めるアルファに、ベータ筆頭は礼をする。  私たちも同じように礼を向け、部屋を出た。   ◆   ◇   ◆  なんだろう。覇気と言うか、圧を感じない。  ガンマと来たときには感じたのだ。畏怖を覚えはしなかったけれど、アルファの威圧はあった。なのに今は、まったく感じない。  私だけではない。ルウもカイも、なにかしら感じたものがあるようだが、何も言わなかった。  館の前で、涼しい顔をしているベータ筆頭に別れを告げ。  私たちはまっすぐ私の棲まいへ向かう。  カイもルウも優れた人狼だ。匂いにも気配にも表しはしない。私も抑えたけれど、おそらくベータ筆頭には露見しているだろう。それも、三匹とも理解している。  私の棲まいに着くと、カイが片手をあげ、軽く手を振る。ベータ筆頭がやった仕草よりかなり簡素化されたそれは、音を封じる技。 「もう喋っても大丈夫ですね?」 「ん」  頷いたカイは、炉に火を熾し、湯を沸かし始める。 「なんだ? どゆこと?」 「カイが音を封じたのですよ」 「あ~~、忌々しいベータ筆頭がやってたやつな! カイのがめっちゃ上手じゃん! さすがだな!」  バンバンと背中を叩かれ、カイは迷惑そうに眉を寄せ、答えることなく私の棲まいに入っていく。  すぐに出てきたカイの手には、茶葉と湯呑と、そして燻し肉と干し果実があった。どうやら、そこに置いていたらしい。 「終わった、から食べよ」 「そだな! ちょい話すんだろ?」 「ですね」  カイが渡してきた干し果実を乱暴に齧りながら、ルウは私にきつい目を向けて来た。 「つーか、わっけ分かんねえの俺! 言えよ! キリキリ言え!」  どうやらルウは、かなり苛立っていたようだ。  匂いにも気配にも出さずにいたので気づかなかった私は、そこまでだったのかと驚く。 「今まで我慢してくれたんですね」 「そーいうのいいから!」  声を上げたルウは、茶を満たした湯呑を渡され、「コレ変な味のやつ!」と言ってカイに叩かれた。 「落ち着いて? 説明しますよ」 「言えないこと、ある?」  カイの問いに、苦笑を向ける。 「ありますね。現段階で言わない方が良い事」 「いーよ、言えるのだけで! つーか、なんでよその郷にうちの恵みやんないとなんだよ!? カイの筆頭を助けに行くんだろ!?」 「穏便に、カイ筆頭を返してもらうためです」  答えていると、カイが茶を渡してくれたのですする。いい香りだ。  カイに目を向けると頷いて、くちを開く。 「あっちは、水の道、溢れた」 「は? そんくらい自前でなんとかすんだろ!」 「それだけじゃないんです」 「だからなに!」 「……ガンマの森、やられた」 「カイ筆頭はそれを知っています。もしかしたらガンマの居場所を突き止めたかも」  ルウはくちをぽかんと開け、目を見開いて絶句した。 「ガンマの森を知る他郷の人狼。……あなたならどうします?」 「そりゃ監禁……いや、……そっか。てかヤバイじゃん!」 「同族殺しこそ無いでしょうが、カイ筆頭はかなり危険であると考えるべきでしょう?」 「つうか! そんならそうと先に言えよ!」  カイがわざとらしいほど大きく溜息を吐いた。私もルウに苦笑を向ける。 「それは、私の一存では言えない部分でしたから」  う~! と唸りながら、ルウは燻し肉に噛り付く。 「かなり大ごとですし、裁可が降りるかどうかも分からなかったので」 「そんであのオヤジと内緒話、かよ!」 「はい。可能なら危険は避けた方がいいでしょう? けれど水の道は通してもらう必要がありましたし、ガンマが何と言うか予想がつかなかったですし、あの時点では言えないことが多かった」 「ンまあ、だな。……ウ~~~」  くちの中の燻し肉をゴクンと呑み込み、「てか!」ルウはキッと私を睨んだ。 「裁可だか降りなかったら、おまえどうした?」 「こっそり行くしかないですよね」  肩をすくめて言うと、 「だよな! 行くよな!」  ルウはパアッと音がしそうな勢いで満面笑顔になった。 「うん! 納得した!」  一気に機嫌を直したルウは、違う茶を出せとカイに言っている。仕方なさそうに、カイは私の棲まいに入り、別の茶葉を持ってくる。いったいどれだけのものを、私の棲まいに置いているのだ? 「基本は考えてありますが、いくつかの可能性に対処できるよう考えたいので時間がかかると思います。いいですか?」 「お…おう!」  考えるのが苦手だと公言しているルウは、少し汗をかきながら言い、カイはコクンと頷いた。 「ただ、頑張って朝までに大筋を決めておけば、次の夜は休めるでしょう」 「は? 休む?」  私は二匹に、にっこりと笑いかける。 「郷を出る前の最後の夜ですから、それぞれ頭を整理して体を休め、準備を整えましょう」  カイに違う茶を差し出され、それをすすったルウが「んまっ!」と大げさな声を上げる。 「おーしヤル気出た! んでどうすんだ?」  しかしルウには番がいる。今生の別れとなる可能性もゼロではない……と言うとルウは、二パッと笑った。 「ンなこと言ったら、狩りに出るたびに大騒ぎじゃん! だーいじょーぶだっての!」  安全策は取るつもりだし、カイ筆頭も含め生きて帰るのが今回の到達点。  けれど絶対はない。 「わーってる、つーの! なんか考えてんだろおまえら! 言えよ!」 「……そうですね」  こんなとき、ひたすら明るいルウには、本当に助けられる。  改めてそう思いながら、私たちは話し合いを進めた。
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