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カイがここにいたのは夜三つ前のこと。
なのにまだ、微かに残っている。進みたいのに進めなかったカイの、焦燥と怒りと悲しみが入り混じった気配、そして匂いも。
私は小さく首を振り、水の道を遡る方向に目を向けた。あの日こちらへ、カイを放置して……共に進んだ方へ。
我が番と語り、鼻を擦りつけ合った、あの場所へ、こちらへ行けば辿り着く。
着いたからどうなると自問し苦笑を浮かべながら、足はいつのまにかそちらへ踏み出していた。
途中、香り草の茂みを通る。意味もなく手折り、その香りを感じながらさらに歩いた。この香りも思い出。我が番とじゃれ合うように転げて……ああ、あのときも鼻を触れ合わせたかった。けれど、また匂いがついてしまう、いけないと自分を律した。
本当なら最愛の匂いを身に纏っていたかった。私は、やりたくもないことをしたのだ。なのに……報われている気がしない。
いや、望みが結実するまでいくつの冬を要するか分からない。そう分かっていて、けれどやり切ると、私は決意した。
それでも心と本能に従わず、意志を強くして動くことは、私を酷く疲労させていた。そう、本当に、疲れた。
足取りは遅くなり、丸みを帯びた石がごろごろ転がる河原に出た。
水際に狐がいたけれど、人狼が近づいたのを察知して、ぴょんと跳ねて森に逃げ去っていった。水を飲んでいたか、魚を狙っていたのか。どうでもいい。
私の目は、鼻は、さらに上流へと向いている。
この先、さらに進めばあの場所だ。最愛と想いを交わしたあの……
足が止まった。
行ったところで、そこには、なにものもいない。当然のこと。
目を落とすと、石の隙間に干乾びた魚が落ちていた。
頭が取れかけている。狐かなにかが、この魚を取り合ったか。そして隙間に届かず、どちらも喰らうことができなかったか。
この魚は命を無駄にした。
「哀れ……」
いや。
哀れなのは……私。
必死に、やってる。私は、頑張っている。なのに……
いいや、しっかりしろ。干乾びた魚一匹に情を動かされている場合か。なにをしているんだ。耐えきれずに一匹で、こんなところに来たって
「会えるはずも」
思わず漏れた言葉を止め、河原にごろんと寝ころんだ。
「ばかばかしい」
ため息が出た。
何匹かの獣の気配が、森の方からする。水を飲みたいのか、魚を捕るつもりなのか。私がいるから河原に出ることができずに、様子をうかがっている。
人狼の成獣を害する獣など、この森にいない。
そうだ、幼い頃教わった。光の眷属は愚かだが、毒を持つから気をつけろ。……本当に?
闇は穏やかで慈愛に満ちると聞く。……本当なのか?
精霊は人狼が大好き……本当にそうなのか?
番と出会えたなら幸せになれると、みなが言う。……それは、本当のことなのだろうか。こんなに苦しいのに。
苦しい。番に出会えたのに、苦しい。
目尻から流れた涙が、毛を濡らし河原の石の色を変えていく。
いっそ愚かな光の眷属がそっと近寄ってこないだろうか。
その毒を受けたなら、私は儚くなれるのだろうか。
逢えぬ番、求めることもできず、それでも本能に呼ばれるように走り出して……こんなことをするより、いっそ儚くなってしまえば、我が最愛は嘆いてくれるだろうか。
いや、馬鹿なことを。
嘆いて欲しくなどない。美しく笑って欲しい。
そのためにカイ筆頭を助け、カイとルウの信頼を勝ち取る。それがまず一歩。それから……迷わず進めば、きっと我が最愛の笑顔を見ることができる。そうだ、ここで儚くなどなっている場合ではない。けれど。
今だけ、少し気弱になることを許して。
すぐにいつもの私に戻る。だから。
水の道はせせらぎを響かせる。
虫が歓び、獣も鳥も集うこの場。
いま、なにものでもない私は、
転がる石の上で、ようやく少し落ち着いた。
目を閉じ、……感じ取れた。
―――鮮烈な匂いを。
これは嬉しい夢の中だろう。
私は愛しい匂いをかぎ取り、目を開く。
天空には月と星々。
そう、これは夢。
我が最愛の匂いを感じ取って、こんな幸せな気分になっている。
いい夢。
ずっとこのまま、この匂いを…………そう思うのに。
夢なのに。
私の心臓は鼓動を速めていく。
体温は上がり、私はだらしなくくちを開き、はあはあと呼吸を荒くする。涙が溢れる。
愛しい匂いが近づいて来るよう。胸が潰れそう。
本当に、近くにいたなら……
また目を閉じる。愛しい匂いを胸いっぱいに吸い込む。
ふっと、身体が浮いた感覚。
逞しい腕に、私の身体がかき抱かれているかのよう。
ああ、なんていい夢だろう。
濃密に香る鮮烈な、けれど優しく私を包む、この……
「おお……」
声。
なんて深い響き。
この身を熱くする声。ああ、鼓動が早まっていく。
「なぜ、なぜ泣いている」
心配そうな声。
大丈夫。
「あなたの声が……嬉しい、だけ」
「どうしたらいいのだ……」
泣きそうにも聞こえる声。
同時、鼻に愛しい匂いが……擦りつけられ―――
「え……」
擦りつけ……え?
目を開く。
目の前には、涙の光る、鈍銀の瞳………
「あ……」
「泣かないでくれ。胸が張り裂けそうに痛む。頼むから」
逞しい腕、胸。
「あ……ぁ……」
気づいたら腕を伸ばしていた。
しがみつくように抱きついて
瞳が見えなくなる。
匂いが私を包み込む。
毛を梳く指が少し震え
「どうした……? どうしたのだ?」
「ああ……」
夢じゃ、
ない……!
「あなた、いる、あなたが、本当に、ああ」
力強い腕、愛しい匂い、鼻を擦り合う。ああ、この歓び。抱きしめる。ただただ愛しい、我が最愛。
―――来て、くれた……!
我が最愛の腕が、私を抱きしめる。
「どうした、なぜここに」
私の毛を梳く指。少し震えて、声も少し、震えを帯びて。
「あっ、会いたくて……っ」
両手で愛しい顔を包む。間近で見つめる。
悲しそうに、それでも輝きを帯びた、鈍銀の瞳。いまにも涙が溢れそうに濡れて、私を見つめている。
「まだ、まだ今は、会ってはいけな……っ」
「どうした、どうしたのだ。なにを言いたいのだ」
「どうしても会いたく……っ、でも……分からな……っ」
「落ち着け、落ち着いてくれ、泣かないでくれ」
震える声で言うと、逞しい腕は私をきつく抱きしめる。
「そなたに逢いたくてたまらなかった。しかし迂闊に顔を合わせたなら、何も考えず、そなたを攫い、走り出してしまうだろう。そなたが望まぬことを、したくは無い!」
「私も、私もですっ!」
「そなたにも勤めはあろうに」
「会いたかった……っ! 会いたくて会いたくて、でも会ったら、きっと私はあなたに抱き着いてしまう」
「会いたかった! 明らかにせぬのは我を案じてのこと。分かっている、故に耐えねばならぬと」
私をかき抱く腕に力がこもる。
「分かっているのだ、しかし……っ!」
私たちはたがいに腕を緩め、見つめ合う。
「私はあの時……あなたの笑顔が」
「うん? この顔が、そなたを苦しめたか?」
眉尻を下げた最愛に、首を振る。
「違います! あなたが……」
あの時を思い出せば滂沱と涙が溢れ、胸が苦しくなる。
「寂しく笑った、のが悲しくて、私は、私は……っ」
「なにを……っ!」
鈍銀の瞳も、涙に濡れて私を見つめていた。
「そなたが無理に浮かべる笑顔こそ痛々しいではないかっ!」
愛おしい番を、視界でも嗅覚でも触覚でも、この身体すべてで感じたい。
「……あなたは、なんと美しいのでしょう」
「美しいのはそなただ。香しいこの香りも……夢にまで見た。こうしたかった……」
呟くような低い声と共に、きつく抱きしめられる。
私はずっと望んでいたように、最愛の毛に鼻先を突っ込み、思う存分鼻を利かせる。
ああ、愛しい匂い。ずっとこのままこの匂いと共に在りたい。
「鼠の灰」
ハッとした。番は互いを幼い頃の呼び名で呼び合う、と聞いた。
「我はそう呼ばれていた」
「私は……菫の白蜜、です」
答えながら、私の鼓動は今までにないほど激しくなっていた。
互いに呼び合うとき、それは大きな歓びを伴うのだと、……聞いたことがあった。
「……呼び名も美しいのだな、そなたは」
「あなたは、……」
似合わない、と言えずに私は唇を噛む。
詩的でない上に語感も美しくない。凛々しくも美しいこの人狼をまったく表していない、どころか貶める意思すら見える。なぜ、そんな呼び方を……
「よい、気にするな」
愛しげに見つめてくれる、美しい鈍銀の瞳が細まる。なんて優しいまなざしだろう。けれどその頬には、あの寂しげな笑顔が浮かんでいた。
「……どうして?」
「我の産まれた郷では、老いてから孕み産まれた子狼を忌むのだ。親は四十を過ぎて我を産んだ」
「そんな……」
私は眉を寄せ、言葉を失った。
一瞬も目を離せない愛しい番を見つめ、唇を噛み……ふっと、思いついたことにハッとして声を上げる。
「あのっ」
「うん?」
優しく問われ、「あのっ」思いつきに心が逸った。
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