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「もし、あなたが、あ、でもあなたが気に入っているなら迷惑かも、でも、もしそうでないなら、もし……」
言ううちに気おくれが出て、声は細る。厚かましいことを、そう思われないだろうか。
「慌てずとも良い。ゆっくり」
大きな掌が、宥めるように私の背を撫でおろし、私は逞しい胸に手を這わせたまま、美しい瞳を見上げた。
「ゆっくりでいい、そなたの望みを聞かせておくれ。そなたをもっと知りたいのだ」
鈍銀の瞳が、優しく細められている。背を撫でる手も、毛を梳くように動く指も、まるで幼狼をあやすよう。
愛しいと思ってくれている。私がどんな我が儘を言おうと、聞き届けようとしてくれる。
そんな確信が後押しとなった。
「……もし、……もし良ければ。……私が、決めてもいいですか? その……あなたの、呼び名を」
鈍銀の瞳が見開かれた。
「あの、迷惑なら、そう言って」
「そなただけが呼ぶ我が名」
低く響く声が呟きを漏らし、そしてその目が嬉しそうに細まる。
「それは良い。良いな」
暖かくも優しい笑顔。私の心臓は鼓動を速める。
「いいのですか? その、想い出があるなら」
「いいや。そなたが決めてくれ。それが良い」
嬉しそうだ。本当に嬉しそうに笑っている。はらわたの底から滲むように湧き上がる歓び。私は、最愛を喜ばせることができる。
「さあ、決めておくれ」
「はい。では……」
期待に満ちた瞳と表情。ワクワクするような期待を滲ませる匂いも愛しい。こんなに逞しいのに可愛いと思ってしまう。
「瞳の色は、少しだけ青みを帯びた濃い灰色ですね。虹彩に薄青の筋があります。とてもきれいだ」
「そう……だろうか?」
「はい、きれいです」
「……そうか」
照れくさそうにくちもとを歪める最愛が愛しくて可愛くて、私は鼻を擦りつけながら、逸る気持ちのまま続ける。
「毛は明るい灰色、いえ銀色ですね。月の光を帯びたとき白く輝くのがきれいで……」
「美しいのはそなただ。我など」
「あなたは、とてもきれいです。ああ、うまく言えない! けれどとても……」
照れた匂いを漂わせながら、最愛は私の唇に人差し指を乗せ、私の声が途切れる。
けれど本当のことだ。この美しさ、どう言い表せばよいのだろう。
必死に考える私を、嬉しそうな笑顔が見つめている。それが嬉しくて、ドキドキと拍動を速めるばかりの心臓は、嬉しさと愛おしさに痛みを覚えそうなほど。それでもこの時間が永遠に続けばと願ってしまいそうに、幸せ。
「ああ、そうです!」
思いついた。この美しさ凛々しさを表す名。
「白銅の銀鼠。……など、どうです?」
「なんと……」
我が番の、白銅色の筋が走る虹彩が、輝きを帯びる。
「そのような美しい名が、我に似合うだろうか」
「似合います! いえでも、まだあなたを表現するには足りない。もっと美しい響きの、もっと……」
「よい」
声を遮った我が番は、いとおしそうに鼻を触れさせ、私の毛を指で梳く。
「それが良い。気に入った」
嬉しそうな、心から嬉しそうな笑顔で、私の最愛は言った。
「ありがとう。菫の白蜜」
「……ぁっ……」
呼ばれた名は、耳から入り心身に沁み込む。言霊が私の魂に共鳴する。鼓動が高鳴り、呼吸すら難しい。
嬉しい。嬉しい。この歓びをどう表したらいいのだろう。
「あ……ありがとう、ございます。呼んでくれて嬉しい、白銅の銀鼠」
「…………っ」
心を込めて呼ぶと、最愛は息を呑んだ。
「……嬉しいのは我だ」
ああ、分かる。とても喜んでいるのが伝わる。きっと私と同じ、呼んだ名が魂と共鳴したのだ。ああ、嬉しい。同じ感覚を共有した。唯一の番とだけ分かり合えるこの感覚。
はぁ、と息を漏らし、我が最愛はぁ改めて鼻を擦りつけてくる。私も夢中でそれに応える。
「美しい名をありがとう」
息の合間に囁かれる声。
「伝わるだろうか、この嬉しさが」
「分かります。伝わっています」
「なんと美しく賢い、菫の白蜜よ」
何度呼ばれても、それは甘美な波動を魂に刻む。
歓びに惚けたようになりながら、抱きしめる腕に力を込めた。
私たちは抱きしめ合い、鼻を擦りつけ合って、互いの匂いに包まれて至福を感じつつ、名を呼び合う。
そうして互いの状況を伝え合った。
示し合わせてはいなかったけれど、私たちは共に他の人狼のいるところで顔を合わせることを避けていた。けれど何をしているか、どのように過ごしているか、知りたくてたまらなかった。
けれど私は、思い出せば匂いや気配に表してしまうと自らを諫め、必死に考えないようにしていた。
反して白銅の銀鼠は、このところ私のことばかり考えていたという。
「本当ですか? 嬉しい。けれどそれでは……」
「人狼に逢わずにいたのだ」
「……どういうことです」
ミュウの役目は、大きく二つ。
ひとつはアルファのすぐ傍に侍り守ること。もうひとつは郷の辺縁を巡回し、他郷やひと族の侵入を防ぐこと。他にもこまごまとした仕事はあるけれど、結局はこの二つに関連することだ。
けれどなぜかオメガにひどく嫌われていた。最近はアルファに近づくなと威嚇され、アルファの館に近づけなかった。
「我はこの郷に来てようやく冬一つを越えたばかり。ほとんどアルファのそばにいたため、オメガ以外のミュウと顔合わせすらしていない。郷の人狼の匂いも、すべて覚えてはいない。筆頭たるオメガからはなんの指示もなく、正直、何をすればよいか途方に暮れた」
そこで郷の辺縁を覚えようと歩き回っていた。郷の地形を覚えるのだと棲まいにも戻らず、……そしてしばしば、ここに来ていた。
「ここに来てそなたを思い出し、慰められていた。触れあったそなたの毛、肌、匂い。美しいその瞳。狼となって転げたそなたの愛らしさ」
「私も、ここに来たのは半分無意識でしたが……あの時間を、求めていた……」
「何度もここに足を運んで、思い出すだけで耐えろと自らに言い聞かせていたのよ。そなたは、我を守るために耐えているのだからな」
分かってくれていた。私が何のためにあの時帰ろうと言ったのか、その後も会うことを避けていたのか。すべて察して、妨げにならぬようにと行動してくれていた。
「私は、この夜からしばらく郷を離れます」
「……危険な務めか?」
「もしかしたら」
私はすべてを話した。
本当なら番であっても務めの話などしないのかもしれない。けれど私たちは共有できるものが他にないのだ。今のすべてを知ってもらうことの、何が悪い。
すると白銅の銀鼠は、ベータ筆頭とアルファが話していたことを教えてくれた。
失敗しても、損失は無い、などと言っていたと。酷く心配になっていたことを。
「……もしも、そなたの身が失われたなら」
不安そうに瞳を揺らす白銅の銀鼠、私は笑いかける。
「私は、あなたが幸せに笑えるよう、考えています」
「菫の白蜜よ、そなたが失われたなら、そのようなこと永劫ありえない」
「ですから、私は必ず戻ってきます」
「……必ず?」
「はい」
「今、この身は何も知らぬ若狼のようだ。不安で、心配だ」
「可哀想な白銅の銀鼠。私はあなたを笑顔にするために行くのです」
「必要なことなのだな?」
「はい、そうです。ですから待っていてください」
「菫の白蜜……」
私たちはまた抱きしめあい、互いの匂いに包まれる。
誰も来ない二匹だけで過ごす時間はとても穏やかで、このまま永遠にこうしていたいと思うほどだったけれど、やがて月が昇ってしまった。
もう行かなければならない。
離れ難い気持ちを口にしつつ、私たち香り草の茂みで狼になって転げ回り、少しだけじゃれ合って別れた。
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