5.黄金の郷 golden hamlet

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 森を抜けて出くわした水の道はとても幅広く、流れは急だった。たいていの人狼は泳げるが、得意とするものは少ない。我ら三匹の中に、泳ぎが得意なものはいなかった。  ここを泳いで渡ろうとしたならとても苦労しただろうが、カイが誘導してくれた。処々に岩の塊が突き出している場所を通ったので、泳がねばならない距離は短かった。  急流に十数歩分ほど流されたものの、対岸に到着までさほど時間を取られずに済んだ。  けれど辿り着いた対岸は切り立った崖だった。突端が見通せないほど高い岸壁は、ほぼ垂直にそびえている。 「ちょ! 地面ねえじゃん!」  ルウが叫んだのも当然。腰あたりまで浸かった水の勢いは早く、水底と崖面に爪を立てて流されまいと耐えるしかない状態だ。  どんな急峻な壁であろうが、僅かなとっかかりに両手両足の爪を立てて登ることができるのが人狼だが、蛇行する水の流れが切り立った崖の根元を抉っていて、足の爪を立てて登ることができそうにない。激しい水の流れで腰から下が流されるため体勢が安定しないので、腕だけで登るのも難しい。  かなりの高さにしっかりと見える樹が生え、枝を下へ伸ばしているので、そこまで登れたならその先にも行けそうなのだが、とっかかりも見えない。その下にも細い樹はあるが、すぐに抜けてしまいそうだ。 「地面のある所まで流れに身を任せますか」  登れそうにないなら登れそうなところを探すしかない。見える範囲に平らな地面は無いようだけれど、致し方ない。  しかし淡々とした表情で上を見上げたカイが言った。 「ん-ん……やってみる」 「なにを、ですか?」  声を返すより早く、瞬時身を屈めたカイは水の底を蹴り、飛び上がった。  水の流れから解放された、成獣にしては小柄な体躯をめいっぱい伸ばす。岸壁に伸びた腕の先、触れたところに爪を立てると同時、背を丸め足の爪も岸壁に引っ掛けると蹴って、さらに上へ飛ぶ。  二回ほどそれを繰り返し、到底届かないと思われた樹から垂れさがる枝を掴んだカイは、重さに撓った枝先を離しながら壁を蹴り、太い幹を掴んで壁を蹴る。  弾む枝を利用してさらに飛び上がると、崖に取り付いて手足の爪を立て、身体を安定させた。  見事なものだと感心しながら見上げている横で、ルウがはしゃいだような声を上げた。 「おっ! なるほどな!」  ルウも水の底を蹴って飛び上がる。  カイより壁に近すぎるように見えたが、逞しい足が崖を蹴ると壁から体が離れた。宙でくるりと身を翻し、水飛沫をまき散らしつつ崖に腕を伸ばして爪を立てると、そこに足の爪も立てて蹴り、またくるりと身を翻す。跳躍力と身体操作能力が段違いだ。  あっさりと掴んだ枝をわざと撓らせ、復元力を利用してさらに高く飛びあがると、カイより体一つ分上に爪を立てて取り付いた。  あれはちょっと真似できないな、と思いながら見ていると、ルウは片手片足のみで体を支え、私に向かって手を振った。 「イケるイケる! 来いよ!」  彼らの取り付いた場所は、成獣三匹分ほどの高さに見える。 「おい、早く来いよ!」  もちろん行きたい。しかし彼らと同じように登ることができるだろうか。彼らがつかんだものより低い位置の樹なら届きそうだが、それはいかにも細く頼りないのだ。  分かっている。彼らとはぐれたら面倒なことになるだろうし、躊躇っていてもいいことは無い。腰まである水は勢いが強くて流されそうなのをなんとか耐えているのだ。  跳べるかではない。私は、跳ぶ。腹を決め、水の底を蹴った。  流れる水から抜けた瞬間、身体に重さがのしかかる。  しまった跳躍が足りない。そうだ水の中の方が体を軽く感じるのだった。忘れていた。  腕を伸ばしたが爪は崖に届かず、宙に放り出されたままだ。せめて崖に近づこうと手近な枝に手を伸ばして掴む。しかし若い樹はポキリと簡単に折れ、落下した。  せめてどこかに爪を立てようと腕を伸ばす。瞬間、喉がグッと締め付けられた。 「狼、なって!」  カイの声がして、咄嗟に変転する。視界がぐるりと回って、放り投げられたと思った刹那、目の前に太い枝が現れたので噛みついた。  反動で崖にたたきつけられそうになるが、顎と牙はしっかりと枝に噛り付いたまま蹴った。  身体は大きく揺れながら、顎と牙に身体の重み全てがかかった状態で、だらりとぶら下がった。前足を伸ばしても、身を丸めて後足を伸ばしても届かない。 「鍛錬不足だよ!」  少し上で、私より三割ほど大きい鉄錆色の狼(ルウ)が、水滴を滴らせながら牙をむいていた。その牙には、私が着ていた服が引っかかっている。  一度水の道に落ちて、再び登ってきたのか。 「ああ、そうか。……はい」  おそらくルウは狼になって飛び降り、服の首後ろを噛んで放り上げたのだ。そのまま私が狼になったので、服だけが牙に残った。  鉄錆色の狼はそのまま崖を蹴り、宙に浮いた身体をくるりと反転させつつ、ひと形に変転し、私のそばの崖に片腕と足の爪でとりつくと、残る腕を私の背に回して支えた。私の爪が崖に届くよう、身体を引き寄せてくれる。  前足を伸ばして爪を立て、後足で崖を蹴る。噛んだままの枝の(しな)りを使いつつ、さらに上の岸壁にとりついて身体を安定させた。 「……助かります」  私は耳を少し倒して告げつつ、ふう、と息を吐き、さらに収まりの良い場所を探して四つ足の爪を突き立てた。 「おまえ~! こーゆーの得意だっただろ!」  ふん、と鼻を鳴らしたルウは、私がしっかり崖にとりついたと見て腕を離し、さらに上へ飛んだ。  確かに若狼の頃、大木を誰より早く登ったのは私だった。爪の強さも俊敏さも自信があった。けれど彼らは成獣となって加護を受け、さらに冬四つの間、日々鍛錬していたのだ。 「狼のまんまでいいからとっとと登れ!」  怒鳴りつけて、ルウはするする崖を上っていく。 「こういうときは、ひと形の方が登りやすいと思うんですが」 「裸だよ」  カイがニッと笑って言った。 「……そうですね」  溜息まじりに応え、狼のまま崖を登る。  ひと形の皮膚は薄く傷つきやすいので、保護するため服を纏う。今夜が満月ですぐに治癒するとはいえ、裸体で崖を上れば、あちこちに小さな傷がつき、その場に血が崖に沁み込む。  血の匂いはなかなか消えない。よほど激しい雨でも降らぬ限り残るのだ。  それはここを人狼が登ったと知らしめることになる。この後どうなるか不明な以上、余計な痕跡を残すのは避けるべきだった。狼の身体は垂直の壁を登るのに適していないが納得するしかない。壁にとりついたまま服を纏う芸当など、私にはできないのだから。  ルウは変転しても問題なく服を纏っていた。  狼の時、服は身体に引っかかっていたが、ひと形に変転しても、きちんと服を纏った状態に戻っていた。服の作りは同じはず。けれどそのやり方が分からない。  私は伸びた枝に時折噛みつきながら、四つ足の爪を使って登っていく。  カイは私より低い位置にいて、落ちても支えるという意思を隠さず見上げて来る。今の私は身体能力で二匹に劣っているのだ。情けないが、せめて迷惑を掛けまいと必死に登った。  シグマとなって冬四つ。  その間ほとんど鍛錬していなかった。その結果がこれだ。  シグマには階位による加護が無いのだから、その分鍛錬をしてしかるべきだった。  とはいえ、王都にいる間は無理だっただろう。ただでさえ目立っていたのだ。ひと族の目に奇異と映るような行動は避けざるを得なかった。  できたのはひと形のまま走ることくらい。その程度でも何をしていると言われることが多く、人目のないときにしかできなかった。  ため息を漏らしそうになり、それを吞み込んで、登ることに集中した。  せめて迷惑をかけないようにしなければならない。
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