5.黄金の郷 golden hamlet

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 崖に吹き付ける乾いた風と、登る途上で差し始めたきつい夏の日差しに照らされ、水浸しになったはずの衣類がすっかり乾いた頃、私たちはようやく登り切った。  郷を出たのは夜半だったのに、既に陽が顔を出している。  日が昇る前に山を進み始めたかった。……いや、ルウとカイだけなら月が沈む前に崖を登り切っていただろう。私が登る速度に合わせていたから時間を食ったのだ。  登り切った先も平坦ではなく、そこここにゴツゴツした岩が飛び出ている斜面で、乾ききった地面は進むだけで土くれが落ちる。  それでも四つ足を付けただけで少しホッとして、久しぶりに見上げた空は筋状の雲が白く横切る他、抜けるような青だった。見下ろすと、雲が遠くで森を覆うようにモクモク湧いている。  登り切ってすぐ、私はひと形になり服を纏った。けれどカイが強く勧めたので再び狼の形をとって、服は背負い袋ごとルウの背負い袋に収まった。  郷を出る前の話し合いの時、カイは私の背負い袋を服に縫い止めたてくれたのだ。変転しても落とさないよう凝らした工夫だそうだが、私は知らなかった。  ひと里には長くいたのは務めだった。  けれど人狼としての働きとは言い難かった。つまり私は、経験不足で鍛錬不足。反してルウとカイは私よりはるかに有能だ。  けれどこれは自分で決めた事でもある。能力が劣っているなら、優れた手足を持てば良い、そう考えてルウと共に行くことにしたのだ。  そう、私が考え、そう決めた。  従うべきところは従うとしても、私は考えねばならない。  ゆえに山を下りるつもりだと言ったルウに進言した。  山の裾野は平坦で走りやすいだろうし、水の道も近いだろう。けれど単純に進まねばならない距離は増える。しかもどんな地形なのか正確に分からないのだ。  ならば進む距離を縮めた方が早いのではないか。中腹を横切るように向こう側まで回り込むのだ。  そして黄金の郷の森が見えるところで、水の道を越えるべく降りればよい。  私が斜面を進む速度に難があることを加味しても、早く黄金の郷に入れるだろう。 「ん」 「アタマいいな! さすがシグマ」  二匹とも賛同したので、私たちは中腹の斜面を進むことにした。  山のものの領域に入ったので、私たちの口数は極端に減り、黙々と進む。伝えたいことがあれば手ぶりや目つきで伝えるか、微かに唸る。幼い頃から共に過ごした私たちだからこそ、それで伝わるのだ。  しかし山はあくまで険しく、傾斜はきついし突然大きな岩塊が表出したりする。乾いた斜面には棘のある低い灌木がまばらに生え、水分の少ない草がぽつぽつと見えるのみ。  夏の日差しから身を隠す木陰は無く、気を抜くと足元からボロボロと土くれが崩れ、落ちていく。痕跡はなるべく残さない方が良いし、余計なお物音も立てたくない。ひと形で走るルウとカイに遅れまいと、狼の姿で速度を落とさずに、かなり気を使って足を進める。  断崖よりマシとはいえ、私にとって簡単に進める道のりではなかった。  そう、私にとっては。  ルウはもちろんカイも、ひと形で走っているのに、土くれ一つ動かさないし、物音も立てない。  感じるところはある。  しかし今は彼らの足手まといにならぬよう、早く進むことを第一とするべきだ。それに私の仕事は考えること。  だから全身に神経を渡らせて進みつつ、周囲を見る。  徐々に植生が変わってきた。斜面により太陽の当たり方が違うのだろうか、灌木しかなかった斜面に丈の低い樹木が現れ、葉を広げはじめた。その根元には下草も見えて、土に少し湿り気がでてきた。日差しの強さは変わらないが、ボロボロ崩れない分進みやすい。  それより気になるのは、小さな獣はおろか虫の匂いすら感じないことだ。どんなものにも精霊が宿るのだから、まったく生き物がいないなどありえない。人狼の気配に怯えて逃げたとしても、匂いくらいは残るはずなのだが。  ちらりと見上げた空を横切るように鳥が飛ぶのが見え、少し安堵を覚える。森とは別世界のように感じがちだが生き物はいるのだ。  ふと、王都にいたときのことを思い出した。  あそこにはたくさんのひと族がいたし、馬や犬や驢馬(ろば)などもいたけれど、精霊の気配がとても希薄だったし、糞尿や香水など臭さで充満して、生き物の匂いは希薄だったように思う。  もしかしたら、ここもひと里と同じなのだろうか。  そういえば。  鳥も、虫も、そしてひと族も、光の眷属だ。穏やかで慈悲深い闇に従属せぬ者たち。神話によると、光が土地を隆起させ、それが山になった。ではここは光の眷属が支配する場所、と言うことなのか。だから森とこんなにも違うのだろうか。  さらに進むと下草が増えてきて、樹木の丈も高くなり、わずかながら木陰ができた。そして人狼ではない匂いと共に、明らかに食いちぎられた草や、果実をもぎ取ったらしい跡が見られた。生きるものの気配を感じることに安心する。  草を食いちぎったのは山のものか、あるいは草や果実を食む獣か。  森と比較して、山には恵みは少ないようだ。水の気配はないし、喰らえるものも少なそうで、暮らしやすい場所には思えない。  水は得るには山を下りるのだろうか。そもそも、この険しい斜面のどこに棲まいを設え、寝起きしているのだろう。  もちろん私たちが見ているのは山のほんの一部でしかない。どこかに豊かな恵みがあるのかもしれないし、人狼を避けて出て来ないだけで、小さな獣や虫は匂いを消す方法を知っているのかもしれない。光の眷属なのだ、人狼の知らぬ何かをしていてもおかしくない。  カイ筆頭は、彼らが山を治めているわけではないと言った。では何のためにここにいるのだろう。喰らうのも飲むのも簡単ではない、こんなところで暮らすのだろう。 「山のものは、ここで生活しているのですよね」  潜めた声でカイに問うと、「ん」と抑えた声が返る。 「あいつら、得意」 「山のものが? 何が得意なんです?」  カイに問うと「山、動く」とだけ返ってきた。  カイの言うことはだいたい分かるが、今回は分からない。 「山が動くんですか?」  さすがにそれはありえないだろう。 「んーん。山、から、動く」 「山のものが、山から出る? 降りると言うこと? そうなんですか? ずっと山にいるんじゃないんですか?」 「んー……、分からない」 「……そうですよね」  カイ筆頭も、山のもののことは分からないと言っていた。人狼とは全く違うとも。 「おい、山の奴らなんて関係ないだろ!」  走る速度を緩めることなく、ルウが言う。 「彼らの場所を通っているのです。出会ったならきちんと挨拶しなければならない。ですが、情報が少なすぎます」 「通るけどなんもしねーよ! つっとけばイイんじゃねーの?」 「それで済めばいいんですが」 「会ってみなきゃ分かんねーだろ!」 「けれど、考えるのが私の仕事です。せめてそれくらいはしないと」 「ああ!?」  ルウが足を止めた。カイもそれに準じ、最後尾を進んでいた私も、狼のまま足を止める。  きょろきょろと辺りを見ていたルウは、 「ココでいっか!」  と、近くの樹の方へ歩いていく。 「ん」  続いたカイはこちらを振り向き、おいでと手を振る。 「どうしました? なにかありましたか?」  気づかなかったけれど、良くない気配でも感じたのだろうか。  しかしルウは木の根元の下草にどっかと座り 「休憩休憩!」  と声を上げた。 「カイ、なんか出せよ!」 「ん」 「シグマも来いって! ちょい休もうぜ!」 「なぜです? 休む必要はありませんよ」 「うっせ! いいから来いって!」  成獣なら三日三晩足を止めずに走り続けることができる。まして今は満月なのだ。飲まず食わずでも疲労など感じない。ただでさえ崖を登るのに時間を取ってしまったのだ。気配が希薄で不気味な場所でもある。休息など必要ないし、休んでいる場合でもない。  なのにカイもそこに行った。背負い袋から何か取り出してルウに渡すとこちらに来て、私の首根を掴んで引っ張っていこうとする。仕方なく私もそこへ行くと、ルウはくちをモグモグ動かしながら、私にも干し果実を押し付けた。 「ホラ!」 「急ぎましょう、ルウ」 「いいから食え!」  私だけ狼なので避けるのが難しいし強引だ。何か理由があるのだろうと思い、くちの中へ押し込まれた果実を咀嚼する。甘みが広がり、少しほっとした。
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