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崖に吹き付ける乾いた風と、登る途上で差し始めたきつい夏の日差しに照らされ、水浸しになったはずの衣類がすっかり乾いた頃、私たちはようやく登り切った。
郷を出たのは夜半だったのに、既に陽が顔を出している。
日が昇る前に山を進み始めたかった。……いや、ルウとカイだけなら月が沈む前に崖を登り切っていただろう。私が登る速度に合わせていたから時間を食ったのだ。
登り切った先も平坦ではなく、そこここにゴツゴツした岩が飛び出ている斜面で、乾ききった地面は進むだけで土くれが落ちる。
それでも四つ足を付けただけで少しホッとして、久しぶりに見上げた空は筋状の雲が白く横切る他、抜けるような青だった。見下ろすと、雲が遠くで森を覆うようにモクモク湧いている。
登り切ってすぐ、私はひと形になり服を纏った。けれどカイが強く勧めたので再び狼の形をとって、服は背負い袋ごとルウの背負い袋に収まった。
郷を出る前の話し合いの時、カイは私の背負い袋を服に縫い止めたてくれたのだ。変転しても落とさないよう凝らした工夫だそうだが、私は知らなかった。
ひと里には長くいたのは務めだった。
けれど人狼としての働きとは言い難かった。つまり私は、経験不足で鍛錬不足。反してルウとカイは私よりはるかに有能だ。
けれどこれは自分で決めた事でもある。能力が劣っているなら、優れた手足を持てば良い、そう考えてルウと共に行くことにしたのだ。
そう、私が考え、そう決めた。
従うべきところは従うとしても、私は考えねばならない。
ゆえに山を下りるつもりだと言ったルウに進言した。
山の裾野は平坦で走りやすいだろうし、水の道も近いだろう。けれど単純に進まねばならない距離は増える。しかもどんな地形なのか正確に分からないのだ。
ならば進む距離を縮めた方が早いのではないか。中腹を横切るように向こう側まで回り込むのだ。
そして黄金の郷の森が見えるところで、水の道を越えるべく降りればよい。
私が斜面を進む速度に難があることを加味しても、早く黄金の郷に入れるだろう。
「ん」
「アタマいいな! さすがシグマ」
二匹とも賛同したので、私たちは中腹の斜面を進むことにした。
山のものの領域に入ったので、私たちの口数は極端に減り、黙々と進む。伝えたいことがあれば手ぶりや目つきで伝えるか、微かに唸る。幼い頃から共に過ごした私たちだからこそ、それで伝わるのだ。
しかし山はあくまで険しく、傾斜はきついし突然大きな岩塊が表出したりする。乾いた斜面には棘のある低い灌木がまばらに生え、水分の少ない草がぽつぽつと見えるのみ。
夏の日差しから身を隠す木陰は無く、気を抜くと足元からボロボロと土くれが崩れ、落ちていく。痕跡はなるべく残さない方が良いし、余計なお物音も立てたくない。ひと形で走るルウとカイに遅れまいと、狼の姿で速度を落とさずに、かなり気を使って足を進める。
断崖よりマシとはいえ、私にとって簡単に進める道のりではなかった。
そう、私にとっては。
ルウはもちろんカイも、ひと形で走っているのに、土くれ一つ動かさないし、物音も立てない。
感じるところはある。
しかし今は彼らの足手まといにならぬよう、早く進むことを第一とするべきだ。それに私の仕事は考えること。
だから全身に神経を渡らせて進みつつ、周囲を見る。
徐々に植生が変わってきた。斜面により太陽の当たり方が違うのだろうか、灌木しかなかった斜面に丈の低い樹木が現れ、葉を広げはじめた。その根元には下草も見えて、土に少し湿り気がでてきた。日差しの強さは変わらないが、ボロボロ崩れない分進みやすい。
それより気になるのは、小さな獣はおろか虫の匂いすら感じないことだ。どんなものにも精霊が宿るのだから、まったく生き物がいないなどありえない。人狼の気配に怯えて逃げたとしても、匂いくらいは残るはずなのだが。
ちらりと見上げた空を横切るように鳥が飛ぶのが見え、少し安堵を覚える。森とは別世界のように感じがちだが生き物はいるのだ。
ふと、王都にいたときのことを思い出した。
あそこにはたくさんのひと族がいたし、馬や犬や驢馬などもいたけれど、精霊の気配がとても希薄だったし、糞尿や香水など臭さで充満して、生き物の匂いは希薄だったように思う。
もしかしたら、ここもひと里と同じなのだろうか。
そういえば。
鳥も、虫も、そしてひと族も、光の眷属だ。穏やかで慈悲深い闇に従属せぬ者たち。神話によると、光が土地を隆起させ、それが山になった。ではここは光の眷属が支配する場所、と言うことなのか。だから森とこんなにも違うのだろうか。
さらに進むと下草が増えてきて、樹木の丈も高くなり、わずかながら木陰ができた。そして人狼ではない匂いと共に、明らかに食いちぎられた草や、果実をもぎ取ったらしい跡が見られた。生きるものの気配を感じることに安心する。
草を食いちぎったのは山のものか、あるいは草や果実を食む獣か。
森と比較して、山には恵みは少ないようだ。水の気配はないし、喰らえるものも少なそうで、暮らしやすい場所には思えない。
水は得るには山を下りるのだろうか。そもそも、この険しい斜面のどこに棲まいを設え、寝起きしているのだろう。
もちろん私たちが見ているのは山のほんの一部でしかない。どこかに豊かな恵みがあるのかもしれないし、人狼を避けて出て来ないだけで、小さな獣や虫は匂いを消す方法を知っているのかもしれない。光の眷属なのだ、人狼の知らぬ何かをしていてもおかしくない。
カイ筆頭は、彼らが山を治めているわけではないと言った。では何のためにここにいるのだろう。喰らうのも飲むのも簡単ではない、こんなところで暮らすのだろう。
「山のものは、ここで生活しているのですよね」
潜めた声でカイに問うと、「ん」と抑えた声が返る。
「あいつら、得意」
「山のものが? 何が得意なんです?」
カイに問うと「山、動く」とだけ返ってきた。
カイの言うことはだいたい分かるが、今回は分からない。
「山が動くんですか?」
さすがにそれはありえないだろう。
「んーん。山、から、動く」
「山のものが、山から出る? 降りると言うこと? そうなんですか? ずっと山にいるんじゃないんですか?」
「んー……、分からない」
「……そうですよね」
カイ筆頭も、山のもののことは分からないと言っていた。人狼とは全く違うとも。
「おい、山の奴らなんて関係ないだろ!」
走る速度を緩めることなく、ルウが言う。
「彼らの場所を通っているのです。出会ったならきちんと挨拶しなければならない。ですが、情報が少なすぎます」
「通るけどなんもしねーよ! つっとけばイイんじゃねーの?」
「それで済めばいいんですが」
「会ってみなきゃ分かんねーだろ!」
「けれど、考えるのが私の仕事です。せめてそれくらいはしないと」
「ああ!?」
ルウが足を止めた。カイもそれに準じ、最後尾を進んでいた私も、狼のまま足を止める。
きょろきょろと辺りを見ていたルウは、
「ココでいっか!」
と、近くの樹の方へ歩いていく。
「ん」
続いたカイはこちらを振り向き、おいでと手を振る。
「どうしました? なにかありましたか?」
気づかなかったけれど、良くない気配でも感じたのだろうか。
しかしルウは木の根元の下草にどっかと座り
「休憩休憩!」
と声を上げた。
「カイ、なんか出せよ!」
「ん」
「シグマも来いって! ちょい休もうぜ!」
「なぜです? 休む必要はありませんよ」
「うっせ! いいから来いって!」
成獣なら三日三晩足を止めずに走り続けることができる。まして今は満月なのだ。飲まず食わずでも疲労など感じない。ただでさえ崖を登るのに時間を取ってしまったのだ。気配が希薄で不気味な場所でもある。休息など必要ないし、休んでいる場合でもない。
なのにカイもそこに行った。背負い袋から何か取り出してルウに渡すとこちらに来て、私の首根を掴んで引っ張っていこうとする。仕方なく私もそこへ行くと、ルウはくちをモグモグ動かしながら、私にも干し果実を押し付けた。
「ホラ!」
「急ぎましょう、ルウ」
「いいから食え!」
私だけ狼なので避けるのが難しいし強引だ。何か理由があるのだろうと思い、くちの中へ押し込まれた果実を咀嚼する。甘みが広がり、少しほっとした。
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