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日が傾きはじめた頃。
ルウは速度を落とし、私と並んだ。
「匂うな」
こそっと言ってきたので頷く。
先ほどから匂いを感じていたのだ。
少し焦げたような、いや違う、油っぽい、それも違う。
とにかく嗅いだことの無い、人狼とは違うが明らかに獣より強いものの匂い。
カイもほぼ並びながら言った。
「山の、やつら」
「だろーな!」
ルウが楽しそうな声を出す。どうやら、ひたすら走り抜けるのに飽きていたようだ。
「風向きを考えてないんですかね」
潜んでいるつもりだとしたら、お粗末というしかない。
「はっ、アッタマわりー」
この匂いは風上にいるし、風の強さから大体の距離まで分かる。人狼なら獲物を追うときや追尾するとき、必ず風下に立つ。子狼の頃には狩りをしながら学ぶことだ。
山のものは雑食。肉も食うはずだが、狩りをしたことがあれば、そのくらいおのずと学ぶだろうに。
「……それとも匂いを隠す気が無いのか」
「わざとだってか?」
「かも、しれません」
見張っているぞと知らしめるため、わざと存在を知らせる。早く出て行けという威嚇を目的とするなら、その可能性もある。
「へっ、やる気ってことだな」
「え? いいえ、牽制ではないかと……」
「おし! 任せとけ!」
言うなりルウが背後に向けて飛んだ。
「だから違うって」
私が呟く間に、ルウは空中で身を翻し、木の枝を掴んで幹を蹴ると後ろ右に飛んでいく途上、宙で体勢を変え、
「ばればれだっつの!」
落下速度も乗せた足を木陰に蹴り下ろそうとして
「げっ!」
変な声を上げた直後
「ぐ……っ」
呻くような音と共に、大きなものが倒れる音がした。
「なんで角!? あ、やっべ!」
騒ぐルウの元へ走ると、山のものがルウに踏まれていた。完全に意識を失っている。
首後ろを守るように湾曲した太い角が左右二本生えているので雄だろう。
「思いっきり脳天やっちまった~! わり!」
山のものは上半身だけひと形になる。
書物で読んだことだが、確かに腰から下は獣のままだった。
獣毛は全身乳白色で、頭の毛も同じ色だ。蹄はあるが、鹿のものとは全く違う。鹿より少し小さい体で、四つ足は短くて太く、ひと形部分も逞しい体つき。頑丈そうだ。
そして山羊で言う首の根元にあたるところからひと形の上半身が生えている。肌は浅黒く、鼻が幅広くて平べったい。
「後頭部あたり蹴って転ばせるつもりだったんだよ! けど角あんだもん!」
「これは、……すぐ意識は戻りませんね」
ため息まじりにこぼすと、ルウはテヘッと言い訳する。
「だって当たったら痛そうじゃん? 俺の足、角より柔いよ?」
「ばか」
カイの冷たい視線が刺さる。ルウが気にするわけもないが、月が満ちている今なら多少の怪我などすぐ癒える。カイの主張は正しい。
「悪かったって。んでもサクッと尋問って行かねーなコレじゃ」
「そうですよ、まったく。どうしましょうかね」
匂いはハッキリ感じたが、全く音がしなかった。ということは、山のものは音に気を使うが匂いに無頓着なのだろうか。
「ん。これ」
カイが背負い袋から取り出したのは、ラムウの実だった。大きさは成獣の親指の先ほどで、酒を作るときに使う、とても酸っぱい果実だ。カイはラムウの実を食べさせて目を覚まさせるのが良いと言いたいらしい。
「おっ! コレで起こすんだな!」
口に含むとあまりの酸っぱさに唾液が出て渇きを補えるので、遠出するとき必ず持って行くものではあるが、気付けに効くだろうか。
「うまくいきますかね」
「ん」
ラムウの実をぐっと握ったカイは、淡々とした表情で割れて汁を滲ませた実を山のものの口に押し込み、鼻と顎を掴んで容赦なく咀嚼させる。ガリガリと齧る音がした。
山のものはピクリとして、くちから涎がダラダラ溢れたけれど、意識は戻らない。
カイは続けて三粒、同じようにしたが、涎の量が増えただけだった。
「うっわ、きったね」
ルウが顔をしかめつつ、鼻をヒクつかせている。
「てか他には居ねーな」
「追尾はこの一匹だけ、ですか。……独断でしょうか」
「さあな~、分かんね」
こいつが斥候と考えるなら、今後も警戒が必要。けれど身を隠す術も稚拙なこの程度のものを斥候として使うとは考えにくい。
独断での行動だとしたら、こいつの好奇心が強いだけで、山のものは私たちを警戒していないということになる。
いずれにしろ、通るだけなら蹴散らせばよいのだけれど……
カイが私に目を向けた。
「ほっとく?」
「そうですね……」
そう、ここに放置して先を急ぐ、という選択肢もある。
けれどルウが鼻を利かせ探りながら進んでいるので、思っていたより時間がかかっているのだ。
山を知るものであれば、最短の道筋を知っているだろう。目を覚ますまで待って情報を引き出すか、それとも先を急ぐか。
暴力的な手段を使えばすぐにでも起こせるが……牙や爪を使わず済ませるべきだろう。私たちはアルファから山のものを害するという命を受けているわけではなく、通過したいだけの単なる侵入者であり、彼らが侵入者を発見したなら、自分たちの地を守ろうとするのも当然のこと。私たちに理は無い。
夜の方が感覚が鋭いし、黄金の森での行動は、月が満ちているうちの方が望ましい。ゆえに早くここを通ってしまいたい。
満月前後、成獣は三日三晩飲まず食わずでも走り通せるとはいえ、それは森や草原を走る場合だ。山は何もかも勝手が違う。
崖を登ったことで時間を浪費したので、早く進みたいと考え、距離の短い中腹を進むことを選んだ。山を横切れば陽が沈むくらいには山の反対側まで到達して山を下り、水の道を渡れると思ったのだ。
なのに陽が落ちてきているのにもかかわらず、まだ水の匂いがしないので、焦燥を感じていた。
人狼の鼻はかなり遠くのものを嗅ぎ分ける。なのに水の匂いを感じないのは、匂いが山に遮られて流れてこないと考えるべきか。だが山のものの中にもミュウやガンマのような術を使えるものがいて、何かしらの術が働いているとも考えられる。そして、知らず遠回りしている可能性もある。
月は毎夜一つ分ずつ欠けていき、徐々に人狼の力は衰える。そう考えれば急ぐべきだ。
しかしできれば山の状況を知りたいし、山のものが持つ黄金の郷の情報も欲しい。郷に在る山のものの情報はずいぶん古いものだったし、カイ筆頭が黄金の郷を得てから暫く経っている。状況が変わっていないかは確認したいところだ。
「カイ、前に来た時は夜二つかけて水の道に至ったんですよね」
「ん」
カイたちは山に登らず、ふもとの森を進んだらしい。
山のものの領域に足を踏み入れるのを、カイ筆頭は避けたのだろう。潜んで情報を得るというカイの役目を考えれば、その選択は当然。勝手の違う場、知らぬ道で、探りが無防備に進むわけがない。
しかし私たちの目的は黄金の郷である。時を費やせば月が欠けていくのだ。山のものに気づかれようが蹴散らせばよい、とルウが言うのも正しい。
それでも私は、やはり情報が欲しい。今は分からないことだらけなのだ。
山を下り水の道を渡ったら、燻し肉でも齧りながら作戦を詰めるつもりだった。けれどコイツから情報を引き出すなり案内させるなりできれば、ここで作戦を立てられる。
それにルウは間断なく匂いと気配を探りながら走り続けているし、カイは筆頭の気配をずっと感じ、追っている。満月近いとはいえ、黄金の郷に入るまで、できるだけ損耗を少なくして万全の状態で行きたい。
私は小さく息を吐いた。
「山のものが起きるのを待ちます。少し休息を取りましょう」
ルウとカイは黙したまま頷いて、同意を示す。
これ以上月が欠けるのは避けたかったが、今のところこれが最善の選択だ。そう私は決めた。
◆ ◇ ◆
酸っぱい! くちの中に、ひどく酸っぱい何かある!
「ぺっ! うぐぅ、ぺっぺっ!」
慌てて吐き出したら、酸っぱさは少しだけマシになったが、くちの中にはまだ変なえぐみが残っている。不味い。
手のひらに吐き出したものを見たが、山で見たこと無い木の実のようだ。
「なんだ、これ、う~……」
くちの周りがべとべとしていたので、腕でゴシゴシ拭う。ひどく頭が痛い。ズキズキする。
見回すと、中の嶺の近くだった。なんでこんなとこで寝てんだ?
痛む頭を振る。
確か頂の祠での役務を終えて、川まで降りようと……そうだ、途中で変な音がした。
猿どもでも猫どもでもない、鳥どもでも、まして山羊族の蹄の音とも全く違う、僅かな音。山肌に蹄をかけて見下ろしていたら、緩い木々の合間を進むやつらが見えた。
そうだ、思い出した。森の獣が山にいるのが見えた。三匹も。それで追ったんだ。
やつらは地べたを這いずるしか能が無い。山羊族は簡単に逃げおおせるけれど、あの牙と爪は脅威だから、気づかれぬよう音を立てずに近づいた。何か喋ってることが分かればと思ったけど、怖くてなかなか近づけなくて、声が聞こえない。
でも頂の祠の役務をする自分は、森の獣が我らの山で何をしてるか見極めないといけない。それで頑張って近くまで降りて様子をうかがってたんだ。そして……ん?
何があったんだ? あれ?
「おっ、起きたか!」
大きな音。ザクザクと山を踏む音。
「つうかくっせーなおまえ!」
目の前に森の獣が顔を出し、恐ろしげな牙をむいた。
「ひっ……」
そのまま、また目の前が暗くなった。
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