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空の底が帯びた茜色が幅広くなり、青灰色にうつり変わっていく空の反対側。白い月が姿を隠そうとしていた。
だいぶ前、水の匂いを感じてからルウの気配が少し穏やかになっている。クィーナがきちんと水の道へ案内しているようだと安堵したのだろう。
「あっ、ほら」
すると、おとなしく道を先導していたクィーナが嬉しそうに声を上げた。
「ほら! 水の流れる音がするだろ? もうすぐ、すぐだよ」
「……そうですね」
ルウがピリッと緊張した。
私たちは互いに頷きあう。これは信用できない。
水の匂いを感じてからだいぶ経っているし、音も少し前から聞こえていた。なのに、ここまで近づかないと何も感じ取れない? 山のものはそれほど劣っているのか?
いいや、小さな獣や虫であろうが、そこまで鈍くはないだろう。それで騙しおおせると人狼を侮っているのか? それともわざと分からないと見せ、侮らせようとしているのか?
時々クィーナの匂いが変わるのだが、人狼と全く違うのでどういう感情か分からないし、どこを見ているか分かりにくい目と小さなくちは何を考えているのか分からせない。
何かしら企んでいるのか、ルウに脅えているだけなのか。
だが疑いを露わにする役はルウに任せることにして、私はにっこり頷く。
「確かに音がします」
「うん、じゃあ……行っていい、よね? ほら、あっちから音するの、分かるでしょ?」
言いながら、クィーナはチラチラと崖を見る。
「ね、もう、案内しなくても行ける、よね?」
今すぐにも登りたそうだが、ルウがぐるる、と喉を鳴らすのでビクビクしつつ動いてはいない。
「そうですね……案内は不要です」
そう言ってにっこり笑いかけると、クィーナは口角を上げ、小さなくちを喜ぶ形にする。
「じゃ、じゃあ」
「が、お尋ねしたいことが」
「えっ!」
また匂いが変わった。ただ焦っているのか? それとも企んでいるのか?
「なっ、なに、かな?」
「森が流れた後、人狼たちの動向に、何か変化は?」
「へっ、変化って? そんなの知らないよっ!」
汗の匂いが、常と僅かに違う。
「もっ、森のやつらなんて、みんな乱暴だしっ! 絶対近づかないし!」
ひと里で学んだ頃、覚えた匂いに似ている。ひと族が偽りを口にする時の匂いに。
「何も知らないんですか? おかしいですね」
「えっ、……えっ」
「ガンマの森が流されたという話を聞いたんですが」
「が、んまの森? ってなに……っ?」
「私の仲間は、あなたたちの誰かから聞いたようなんですが」
「おっ、おいら下の方は良く分かんねえし」
「『頂の祠の役務』を務めているあなたが、知らないんですか?」
その役務とやらの内容は知らないが、誇らしげに言っていたのだ。何らかの反応はあるだろう。
「いっ、頂の祠はっ、てっぺんだしっ!」
「すぐ近くの人狼の郷について、何も知らなくて勤まるんですか?」
「しっ、しらないっ! おいらなんにもっ!」
「おい、もうイイだろ?」
ルウがのそっと近づいてきた。
「聞き分けねえなら、やっちまっても」
「ひっ」
思わず苦笑した。ルウはわざとらしく舌なめずりしているのだ。
「もう要らねえんだろ、ソイツ? 喉笛搔っ切って……」
クイーナはその場から駆けてピョーンと飛び上がる。僅かな段差に蹄をかけ崖を駆け上がろうとしたが、その背には、すでにルウが飛び乗っていた。
片手を目の前に揺らして爪を見せつけつつ、喉元に押し付けたもう一方の爪は、今にも喉を裂きそうだ。
「言ったよなあ? お前より速いって」
崖に張り付くように立ったまま動かないクイーナは、変な匂いをぶわっと噴出した。なるほど、これが怖れた時の匂いか。崖に架けた蹄の先まで小刻みに震え、息もできないでいるのだからおそらく間違いない。
つまり今まで匂っていたのは違う。ビクビクと怯えたフリをしていたが、怖れてはいなかった。やはり偽っていたのか? だとしたら何を偽った?
「……私たちについてきたのは、情報収集ですか?」
クイーナは答えない。
ルウが背にまたがったまま崖を蹴った。バランスを崩してクイーナの蹄が崖から離れ、細い樹をなぎ倒しながら斜面にずり落ちる。
「いたっ、いてーよっ」
クィーナは、四つ足をバタバタさせつつ泣くような声を上げている。
肩と獣体の前足の付け根、尻横をしたたか打ち付けたようだが、ほぼ真っ逆さまに落ちたように見えて頭を守っているし、四つ足も腕も元気そうに動いている。侮るべきではない。
きれいに着地したルウが、クィ—ナの首の付け根を踏んだ。
「びぎゃ」
ジタバタ暴れる四つ足に加えて、腕がルウの足を掴みどけようとしている。けれど逆に体重をかけられ、息ができなくなったクィーナの顔に、ルウはニヤリと牙をむいた笑顔を向ける。
「てっぺんで役務だかしてる奴が、何も知らねーわけねえ、んだろシグマ!」
「そうですよ、少しは情報をもらわないと」
私はくちを覆う布を外した。ニッと牙を見せて笑いかける。
「昨夜から干し果実しかくちにしてないので、腹は減ってるんですよね」
「……っ」
あまり腹は減っていないが。
「骨ばって喰らう所は少なそうですが、どんな獣でも……はらわたは旨いですから」
実のところ、狐など雑食の獣のはらわたは臭くて、あまり旨くない。クィーナも雑食だろうし、はらわたは臭そうだ。正直言って喰いたいとは思わない。
「だな! そろそろ肉が喰いてーと思ってた!」
カイが荷物袋をごそごそしながら言った。
「塩、あるよ」
「おー! でかした! おまえの塩、うめーからな!」
怖れの匂いが濃くなる。頭の白い毛が、汗で額や首に張り付いている。
私は身をかがめ、痛みにか屈辱にか歪んでいる汗みずくの顔を覗き込んだ。
「答えてくれますよね、クィーナ?」
問う声に合わせるように、ルウが首を踏んでいた足から力を抜く。一気に呼吸を再開したクィーナはゲホゲホしながら胸を大きく波打たせ、空気を取り込んでいる。
「あなたたちは森のことを知ってますね?」
「ぐっ、げほっ、し、しらな」
「おら」
首の付け根から離れたルウの足が、肩甲骨を砕かんばかりにかかとを打ち込む。切れ切れの悲鳴を上げたクィーナの、怖れの匂いが強まった。
「コイツの問いに答えろ。したら逃がしてやるよ」
「げほっ、はぁっ、はあっ」
「むしろ定期的に調べているんじゃないです?」
「おら、答えろって」
「……くっ、喰わない……?」
「ちゃーんと答えたらな」
「…………」
汗は吹き出し続けているし、怖れの匂いも強いまま。葛藤しているようだ。
「私たちが知りたいのは、あっちの森のことだけです。あなたたちのことは聞きません」
「……そ、それなら……」
顔を歪めながらクィーナが語った。
しかしその内容は、持っていた情報と違っていた。
◆ ◇ ◆
強い嵐が続いたとき、黄金の郷の森(彼らにとっては『あっちの森』)に水の道が流れ込み、多くの木々がなぎ倒された。棲み処を奪われた多くの獣が流れる水に乗って山に逃れてきたが、クィーナら山のものは乏しい食いものを荒らされてはたまらんと考えた。
そこで獣たちをこっちの森(我らの郷のことだ)へ誘導しつつ様子をうかがったのだという。
クィーナは獣や虫の拙い意志を読んだのだと、当たり前のように言った。どうやら山の民はそういうことができるらしい。
『森、流れた』
『棲み処、流れた』
『エサ、流れた』
『森の獣』
『大切』
『なくした』
『大騒ぎ』
『怖い』
『怖い』
『怖い』
彼らは皆で角突き合わせ、獣たちから得た断片を総合した結論を共有した。
どうやら氾濫した川があっちの森に流れ、森の木々をなぎ倒したらしい。そのとき、あっちの森の獣たち(人狼のことのようだ)は、何か大切なものを無くして大騒ぎしていて、獣たちは怖れている。
森のやつらが川を越えて山に入ってきたらどうしようと恐慌に陥るものもいたし、川を渡れぬ小動物が喰えるものを食いつくすのではと怯えるものもいた。それでも彼らは長老を中心にして行動を決めた。
地べたを這いずるしか能の無いあんな奴ら、自分たちが崖を登って逃げれば捕まることはない。小動物が食い荒らす前に、彼ら自身が小動物を食い尽くせばよい。
そう納得し合ったのだという。
「それだけですか? ガンマの森のことは?」
「だっ、だから! 知らねえってそんなん! 森のやつらの『大切』がなくなったってことだけ!」
「カイは山のものから聞いたんですよね? ガンマの森が被害を受けたと」
「筆頭、が、聞いたから」
「あなたは直接聞いていない?」
「ん」
どういうことだろう。クィーナが嘘をついているのか、カイ筆頭が訊ねたも
のが嘘をついたのか。
「あ、なあ」
クィーナがカイに問いかける。
「その聞いたってやつ、黒くなかったかい?」
「……ん。黒、に茶とか灰色が混じった毛。角、あんたより長くて太い」
「ああ! そりゃ!」
クィーナの声が弾んだ響きを帯びる。
「嘘つき野郎のトゥィータだ! あいつ嘘ばっか言うんだ! あんたら騙されたんだよ! おいらは悪くねえ!」
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