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「は? 誰だそいつ」
低い声を出すルウが演技ではなく狂暴な表情になる。ヒッと悲鳴を漏らしたクィーナが慌てて言い継いだ。
「だっ、だから! トゥィータは嘘つきなんだ! だっておいらグァンアの森? とか知らねえもん!」
「ガンマ」
「頼むよ喰わねえでくれよ! おいら旨くねえよ!!」
カイが訂正を口にしたが、クィーナは気にする余裕もないようだ。
「なるほど」
山のものより情報を得て、調べるために黄金の森に入ったカイたち。そこで筆頭と分かれ、カイは報告のために郷へ戻った。しかしその情報が偽りだったとするなら、何故カイ筆頭は戻らない?
カイが戻ってから月は天空でひと巡り……満ちた後新月を経て再び満ちている。騙されて偽りの報告を告げたカイの為にも、早く郷へ戻って正しい報告を上げるべき、ではあるけれど。
「やはり……捕えられているのか」
呟くと、カイがまっすぐ私を見た。私は小さく頷く。
他郷の人狼を捕らえたなら探りはその人狼の気配を抑える。そうする業もあるし、道具を使ってもできる。そうカイは言っていた。
ゆえに、いまだ筆頭の気配を感じるのは、潜んでいるからだとカイは言っている。ではどう考えるべきか。
そもそもクィーナの言うことを信じられるのか? 何とかいう奴を嘘つきだと言ったクィーナ自身が嘘をついていないという保証はない。
「どうする、シグマ」
クィーナの首を踏んだまま、ルウがこちらを見ている。カイも口を引き締めたまま同様に見つめて来た。小さく息を吐く。
こいつを信用するか否かは問題ではない。我々はカイ筆頭を連れ戻すためにここにいる。目的を忘れるな。すでに月は欠け始め、予定より遅れているのだ。
「クィーナ、今は急ぐので、あなたとはここでお別れです」
「……っ! うん!」
クィーナが声を上げた。くちもとは嬉しそうにも見えるが、今までも含めすべてが演技ではないと、何故言える?
「……ルウ」
「おう!」
「印をつけて」
「よっしゃ!」
「ひえっ、……いたっ!」
答えとほぼ同時に、クィーナが悲鳴を上げた。
「痛いっ、痛いよっ!! ひ、ひどいっ! 喰わないって!!」
「素直に話したらな!」
クィーナの左耳が欠け、乳白色の毛が流れる血で濡れていた。ルウは抑えていた足でクィーナを蹴り飛ばす。クィーナは勢いよく転がって崖にぶつかり、土くれが乳白色の身体に振り落ちた。
「ひぃっ! 痛い痛い痛いっ、おいら話したのに! ひどいよ!」
「おまえゼンッゼン素直じゃねーもん。せっかくだから目立つとこにつけてやった!」
群れを成す獲物を狙うとき、狩りは群れの一匹だけを捕らえて印をつけ、放す。印のついた一匹が群れに戻れば獲物の位置が知れる。そこを皆で襲うためだ。
つまり印をつければ、ルウには獲物の場所が分かる。月が一巡りするくらいの間だけ、とルウは言っていたけれど充分だ。
「おまえの匂い、覚えたからな!」
とはいえ傷をつける必要は無いのだ。印をつけられたと知れば、獲物は群れに戻らないかもしれないから、気付かれぬような印をつけるのだ。ルウほど巧みにはできずとも、人狼ならみなそれくらいはできるし、すぐ近くにいるので、今なら私にも分かる。
印はクィーナの獣体の尾の付け根近くにつけてあった。人狼なら見誤ることは無いだろうが、ルウは一昼夜走るほど離れていても迷うことは無いと言っていた。
なのにあえて耳を食いちぎったのは、クィーナを惑わすためか。
いや、意趣返しかもしれない。懐柔する私を甘く見てベラベラ喋るのを、ルウは苦々しげに見ていた。
「また用があれば呼びます。私たちからは逃れられませんよ」
崖に縋るようにしてヨロヨロ立ち上がったクィーナは、またぴょーんと飛んで崖に足をかけた。
「しっ、知らない!!」
「おいこらっ!」
声を荒げたルウが飛び上がり、樹を蹴って追うが、クィーナは崖をどんどん駆け上がっていく。
「知らないっ! おまえらなんて知らないっ!」
声が遠ざかり、姿が見えなくなる。クィーナは移動するとき、あまり音を立てないが、微かに聞こえていた蹄の音が土を蹴るようなものに変わった。匂いが遠ざかっていく。
「行ったな」
「……わざとらしい」
カイが鼻を鳴らすと、ルウはへへっと笑う。
「そうですよ。最後のあれ、半分笑ってましたね」
「いや、だって一応追っかけるフリくらいしねえと!」
「まあ、そうですけど」
クィーナはルウから逃げおおせたと考えるだろうか。分からないが、それより優先すべきは進むことだ。
「我々も行きましょう。急ぎますよ」
水の匂いがする方向へ走り始めると、すぐにルウが追い抜いて先頭に立った。カイは最後尾をついて来る。
さして時を置かずに道らしきものは終わり、私たちは立ち止まった。
見下ろすと、ほぼ垂直の崖だ。
はるか下方には、白い泡を立て荒々しく流れる水の道が見えた。周りは林のように濃い緑に覆われている。
来るとき登った崖とは違い、途中に棚のように突き出る部分があった。流れる水の合間にも足がかりになりそうな岩が見え、いくつかには木が生えているので、しっかりしていそうだ。これなら渡るのも難しくはない。
「ほー、一応ここまでは嘘じゃねーってか」
「どうでしょうね。……行きましょう」
地を蹴り、宙に身を躍らせる。
落下しつつ体勢を整え、棚のように突き出た部分を蹴って再度飛んだ。
流れる水の合間に突き出た岩に足をかけ、次の岩へと飛ぶ。何回かそれを繰り返し、対岸に着地した。
河原は無く、短い崖があって、その上が森になっている。
無自覚に深呼吸していた。
精霊の息吹がある。ここは人狼の治める森だ。
「ふぅ~、生き返るなぁ!」
確かに。
山を進む間、木々があるのに精霊の気配は希薄だった。獣や虫の匂いがしなかったのも、そのせいかもしれない。
「それでは、予定通りに」
「おう! 俺らは正面に行くんだよな!」
「はい。カイは筆頭のもとに向かってください」
「ん」
「では」
私たちは二手に分かれる。
カイは短い崖を登り、森に飛び込んだ。私とルウは水の道に沿って駆けていく。木々が並び下草が生い茂るここには、確かに精霊の息吹がある。
山を通っていたときには無かった歓びが湧き上がる。
とはいえ他郷ゆえ、我が森ほどではない。精霊に迎え入れられていない感覚があるのだ。しかし精霊のいる森こそが人狼にとって最も安らげる場であることに変わりはない。
そんな再認識と共に、私とルウは森の際を迂回する。正面と呼ばれる場へ向かい、務めを果たすために。
◆ ◇ ◆
「なんだよ、あれ」
クィーナは、戦慄と共に呟いた。
山から川まで、なだらかに下りる道など無い。また崖に出たら、あいつらはどんな顔をするのか、どんな風に慌てるのかと楽しみにしていたのに。
「なんで飛び降りる? バカじゃねーの?」
あいつらは地を這うだけの愚図のはず。ちょっとした崖でも横切れないんじゃなかったのか?
なんで? 山羊族だって、あんな高さから飛び降りたら、うまく行っても足を折るか、そうじゃなくても大怪我して、急流に流される。下手したら岩に叩きつけられて死ぬ。なのにあいつら、一瞬も躊躇しなかったよな? なんなんだあいつら。
『私たちからは逃れられませんよ』
あの気の弱そうな薄い金色のやつが言ったときの目を思い出し、ゾクッと身震いした。
紫の瞳に、不気味に輝く金色があって、ものすごく怖かったのだ。
「まさか、本当に……」
ブンブンと角が風切る音をたて、クィーナは激しく頭を振った。
「んなわけない、あいつらが、おいらをまた捕まえるなんて、絶対にない」
はずだ、と思いつつ、腹の底から冷え冷えと怖れが立ち上ってくるのを、抑えることはできなかった。
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