5.黄金の郷 golden hamlet

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 月が欠けたといっても、まだ夜三つ。  この月齢の人狼が走れば、たいていの獣は逃げる。そうできなくとも身を隠し、行き過ぎるのを待つ。  だが、そうだとしても、この森は生き物の気配が薄すぎた。  カイと別れ、私とルウは森の際を駆けている。  水の道に沿って走り抜けているのだが、上から見た通り水の流れは激しい。これが通常なのか、今だけなのかは不明だが、根こそぎ倒れた樹木が水の道を遮るように倒れている箇所がいくつもあった。森の中にも最近折れたと思しき木々が倒れ、根が転がっているのが見えたし、抉られたように草木の無いところもあるようだ。  どうやら水の精は相当暴れたらしい。生き物の気配が薄いのはそのせいだろうか。それとも他に要因があるのか。  判断するには情報が足りない。しかし――― 「……我が郷は、こんなことになってなかったですよね?」  小さく問うと、「ねえな」すぐにルウが応えた。 「風の精が数夜暴れた時、弱い樹は何本も折れたがな、水の道は暴れてない」 「山を挟むとこんなに違うんですね」 「ここのガンマが能無しなんじゃねえの」  へッと笑いながらルウが呟いた。  精霊師(ガンマ)は精霊と通ずる。  そして優れたガンマは精霊に望みを叶えてもらえる。優れたガンマは偉大なアルファのもとに産まれ(いず)る。  だから郷に大きな災いが落ちなければ褒め称える。  我が郷のガンマは優秀だ。  偉大なアルファがいるからだ。  人狼は良くこう言うが、私は疑問を持っている。  もしガンマが精霊に願うことで防げるのなら、そもそも暴れないように頼むべきではないか。  しかしガンマの報せはいつも、唐突に齎される。  水の精、あるいは風の精が暴れる。  子狼を持つ番には幼いものを守るように。狩り(ルウ)には狩りを、採る(タウ)には森の探索を控えるように。倒れそうな棲まいがあるなら大工(カッパ)を呼べ。  ガンマが報せたそれはシグマ筆頭からベータへ伝わり、アルファやベータはその対処を為し、下位のシグマが森を駆けずり回って皆に報せる。  けれどガンマの報せが来るのはいつもギリギリだし、必ず報せが来るわけでは無い。雷が落ちる報せは来ないし、報せが来ぬまま水や風が暴れることも少なくない。  人狼はそう簡単に子を宿さないのに、ひと冬巡る間に失われる子狼が何匹もいる。  ひと形を取るようになった子狼は親から離れ、仲間数匹で群れを作る。みなで相談して巣を営み、遊びながら狩りをして連携を学び、狩り食いをしては喰えるものを学ぶ。しかし未熟で体躯が弱く、力も弱いのだ。  我が郷のアルファが『子狼が失われぬよう心を砕け』と命じている以上、天候の急激な変化によって失われる子狼がいるなら、その報せは郷にとって重要ではないのか。  とはいえ、失われるのはいたわしい、危ないからと成獣が囲い込み、守るなどすれば、必要なことを身に着けることなく成人を迎えてしまう。  それでは正しい階位を受けられなくなるかもしれない。いや、精霊が言祝がなかったなら、成獣となれないかもしれないのだ。  人狼として必要なことを自然に学ぶのも、大切なことなのだ。  そんなことを考えながら駆けるうち、明らかに気配というか空気が違う場所があることに気づいた。少し先だ。 「マジか。ゼンッゼン違うんだな」 「ええ」  ルウが呟き、私も同意を返す。  郷の正面へ向かえ、行けばおのずと分かると言われていたが、本当にすぐに分かった。 「ここまではっきり何処が正面か分かっていたら、ここ以外を通る気にはなりませんね」  他郷の人狼に対して精霊たちが向ける、なんとなく落ち着かない嫌な感じ。それがそこには無いのだ。これは事前に知らされても意味が分からない。確かに他郷に赴き実感せねば分からないことだった。  しかしこれほど歴然と違うものかと、胸の内で納得していた。  郷で安穏と暮らすばかりでは、分からないことが多すぎる。  自分の郷であれば、もともと精霊に受け入れられているから変化がない、ゆえに気付かなかった。  けれど、我が郷にも『正面』があるのだろう。  我が郷の『正面』から出て、黄金の郷の『正面』に回る場合、人狼の足でも夜四つから五つはかかると言われている。  少しでも早く行くべきという思い、さらにカイ筆頭の通った道を行くべきではという迷いがあったため山を経る計画を立てたが、結局筆頭とは違う道筋を辿ったし、予定より時を費やしてしまった。  私たちなら夜三つで正面に到達できたかもしれず、それなら費やした時とあまり変わらないのだ。山を経由したのは失敗だったかもしれない。  そう(よぎ)った考えに反して、私の心の内には確かめるような声が響いていた。  けれど、じかに山のものを見た。  これは今後、無駄になるまい。   ◆   ◇   ◆  書物で知り得た知識は実際と違う。  それは王都で学んだ時に、痛いほど実感したはずだった。  人狼の森であればどこも同じと思っていたが、それも違ったようだ。  私たちは正面から森に足を踏み入れた。  事前に聞かされていたような、『精霊に訪いを告げる』ことは無かった。どう告げればよいか分からず歩き始め、そのまま特に支障無く進めたのだ。  そうなると森に何が来たか、いち早く察するのは守り(ミュウ)だ。  私たちが正面の道に足を踏み入れたことは、すでにミュウに知れているだろう。そしてしかるべきものに報せが飛んでいる。  『正面』と呼ばれるそこは、樹木が不自然に除かれていた。  人狼にはここが『正面』の道と分かるが、たとえばひと族なら見分けがつくまい。  道沿いの樹木が枝を伸ばし葉を茂らせ、曲がりくねっているので見通しはきかないし、草も旺盛に茂っているのだ。  といっても入り込めば屋根の無い小型の馬車くらい通れそうだ……と考え、私は得心した。  かねてから、商人がどうやって森に荷車を持ち込むのか不思議だったが、ここを通って郷に入るなら荷車くらい持ち込める。  商人が来るとミュウが察知し、待っていたものに報せを飛ばす。  イプシロン、フィー、カッパなど、必要なものや欲しいものがあるとやって来るし、番への贈り物を商人に頼むものもいる。好奇心の強い若狼が顔を出すこともある。  シグマは紙、ペン、インクなどが欲しいので私にも報せが飛んでくる。私が最も下位だから、商人のもとへ走るのは私なのだ。  様々なものを乗せた小型の荷車と共に、森にぽっかり開けた場所で、商人は待っている。そしてベータが対価となるものを商人に渡す。  けれど、ほとんどの人狼は来ない。  多くの人狼は、商人を人狼と認めていないのだ。商人はひと族を番とする人狼だが、ひと族と番うなら人狼ではないと、皆が言う。  私はいつも思っていた。  番を選べる人狼などいない。出会ったなら番うしかないだろうに、それがひと族であったら諦めろとでもいうのだろうか。せっかく出会った番を諦めるなど、できるわけがないだろう。人狼なら、それが分からないはずがない。  そして今、私は王都への道行きに協力してくれた商人を思い浮かべ、薄く笑んだ。  なるほど、精霊は人狼に優しいばかりではないのだ。  私の中に再び納得が落ちた。  番と出会うに、理不尽を被ったのは私だけではなかった。意外と身近に同類はいたのだ。   ◆   ◇   ◆  進むうち、しばらく先に強い気配が現れた。  一つの気配はすでに威嚇してきている。 「おそらくベータでしょうね」 「あとはミュウってとこか」  にやけながら言うルウは、とても嬉しそうだ。こういう顔のルウは好戦的になりがちなので、私はそっと低めた声を出す。 「予定以外はくちを開かないように」 「うーす」  威嚇が飛んでくるのでやる気になったのかもしれない。だが出会い頭に威嚇し合っていては話が進まない。 「分かってますか? 威嚇もダメですよ。飛びかかってもいけません」 「わーってるって!」  などと言っているうちに、立派な体躯の人狼と大柄な人狼が見えた。  私たちが足を止めると、立派な方が良く響く声を出す。 「深き森のものたちよ。なに用で参られたか」  私たちがここを『黄金の郷』と言うように、我が郷は『深き森』と呼ばれている。広い森を抱く郷だからだろう。  私は両手を胸にあて、にっこりと笑んだ。  爪を向ける意図は無い、つまり争う気が無いと示す仕草だ。ルウも倣って同じ仕草をする。 「水の道が暴れ、獲物が減っていると知りました。我がアルファは援助をする用意があると仰せです」 「援助だと?」  大柄な人狼が威嚇を強めたが、立派な体躯の人狼が僅かに覇気を強めると威嚇は収まった。 「この身はベータ筆頭である」  やはりベータ、それも筆頭だった。覇気は向けられたままだが、私は笑みを深める。 「私はシグマ。こちらはルウです」  こちらも階位を伝えると、ベータは覇気を抑えぬまま小さく頷いた。 「水の道は確かに暴れたが、どうして知ったか」 「山のものより聞いたのです」 「ふうむ」  言う間も、黄金の郷のベータ筆頭は覇気を弱めない。 「そちらでは、山のものと交流するのか」 「いいえ」  私は笑みのまま首を振る。あんな連中と親しく付き合ってるなどと誤解されてはたまらない。 「我が郷に獣と虫が増えたので、水の道を越えて山に入り、事情を聴いたのです。初めて山のものを見ましたが、奇妙な生き物でした」 「シグマとルウが! 何しに来た!」  大柄な人狼がまた威嚇してきた。 「おまえには、くちを開くなと言ったな」 「しかし! 援助などと抜かすならベータが来るべきだろう!」  おそらくあれはミュウだろう。郷とアルファに対する敬愛が強い階位だが、近視眼的になりがちで、話が通じず面倒。うちのミュウ筆頭はバカだし。 「獣が増え、山のものから話を聞いたのみで確証がありませんでした。私は状況を見てくるよう言われ、まかり越しました。困窮が見えなければそう報告します」  ベータが出るほどではないとき、シグマが他郷との交渉に赴くことはある。違和感はないだろう。 「ではなぜルウがいる!」  ルウは狩りに特化した階位だが、同時に戦闘にも優れている。こう言われるのは想定していた。 「朋友なのです。一匹で行くと言ったら付き合ってくれました」 「ふうむ。そこなルウよ。シグマを行かせるのは心配だったか」 「はい! こいつドンくさいんで!」 「さもありなん」  ベータは納得したようだ。  ミュウも不満げながら威嚇を収めたので、この郷でもシグマに対する見方は同じなのだろう。能力が低いと侮っている。  大丈夫、事前に打ち合わせた通りに進んでいる。 「話は分かったが、要らぬことだ。とはいえここで帰れと言っても、それでは報告できまい。来るがよい」  言うなりベータは、覇気を抑えぬまま走り出した。  私たちもそれを追う。ベータは気配を追って来いとばかりに、かなりの速さで森を駆け抜けていく。  礼をもって案内する必要は無いと考えたのだろうが、私とルウは走るのが得意なのだ。引き離されることなくついて行った。  しかしこの郷のミュウの気配は、いつしか遥か後方にあった。まさか他に侵入する者がいることに気づいて、そちらへ向かったか。  いや、ミュウの気配はこちらに向かっている。気配を追っているのだ。では単に速度が足りないのだろう。カイの元に向かったわけでは無い。  そう、カイは優秀だ。知られること無く森に入ったのだろう。  気配にも匂いにも出さずに、私は密かに安堵する。  別れたのは日の昇る頃だが、すでに陽は西に大きく傾いている。もう筆頭を見つけただろうか。
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