5.黄金の郷 golden hamlet

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 ベータを追ううち、自ずと感じた。  森の中に、強い気配が固まっている場所がある。  樹間を蛇行しつつ進むベータは、そちらへ向かっているように思われた。  おそらく階位の筆頭が集まっているのだ。いや、ひときわ強い気配も感じる。もしかしてアルファもいるのか?  まさか、と思ったが、考えればそれは当然と言えた。  群れで最も強い雄はアルファなのだ。  他郷のシグマやルウ程度に遅れを取るわけもない。むしろ覇気を見せつけて従わせようと考えるのが、人狼なら順当なところだろう。一瞬、意外に思ったのは、我が郷のアルファがあまり表に出ないから、でしかない。  そして郷のすべてにおいて、最終的な決定はアルファにより為される。  私は我がアルファからの援助の申し出を伝えなければならない。だがこれは最低限やらねばならないこと。カイ筆頭のことはおいておくとしても、せっかく来たのだから黄金の郷の現況について情報を得るべき。  それにカイが密かに連絡してくる手はずなのだ。少なくともそれまではここにいなければならない。しばらく居座る許可を得るためにも、直接話せるなら、こちらもありがたい。  ベータの反応から考えても、おそらく郷に居座ること自体は問題ないだろう。何もなかったようですと郷へ戻るわけには行かない、というのは理解されているようだし。  いや、楽観は禁物だ。アルファの性格によっては、どう転ぶか分からない。  などと考えつつ駆けていて、唐突に風を切る音が迫った。  無意識に反応して後ろに飛ぶ。  風切り音と共に、顔の前を足が横切った。  鋭い蹴りが私の顎を狙っていたのだ。間一髪で躱したが、体勢を整える間もなく伸びきった腹に爪が飛んで来る。後ろに飛んだが、今度は腹を狙って蹴りが伸びてきた。早い。  ―――躱しきれない。ゾゾッと肌がそそける。せめて肋骨に当たれば内蔵は守れる、なんとか身を捻る。  次の瞬間、蹴り足が私から逸れた。別の足に蹴られたのだ。  五歩ほどの距離を置いて、ベータが地に手足を付けた反撃の構えで着地した。  ベータの足を蹴り飛ばしたルウは、私の前で身を屈め攻撃体勢で牙を剝きだしている。 「なんのつもりだ、おっさん」  いつでも飛びかかれる体勢を維持したまま、ルウが低い声を出した。  けれどベータ筆頭の目は、私に向けられている。 「この身の速度についてきたな」  低く唸り始めたルウの背を撫で、落ち着くよう促した。しばらく滞在したいのだ。ベータとの間に波風立ってはマズい。 「どんくさい、のではなかったか、シグマ」 「森を走るのは得意なんです。シグマは報せを伝えるのに駆けずり回りますからね。我が森は広いですし……」 「蹴りと爪を躱したな」 「ルウや朋輩は悪戯してきますから、躱すのはなんとか。ですが反撃は」  私はにっこりと笑んで両手を肩の高さに上げ、軽く降った。 「じゃれあいだと? 子狼のやることだ」 「うっせーな! どういうつもりだ、つってんだろ!」  今にも攻撃しそうに威嚇を飛ばしながら怒鳴るルウに目をやり、ベータは目を細めた。 「ゆえにルウが共に来たと?」 「ええ。私だけでは心もとないようで」  ベータは構えを解き、すっくと立つ。 「腹が座っている。覇気にも怖じぬ。語り部(シグマ)だなど(たばか)りであろう」 「はあ? こいつはシグマだ! つってんだろーか!」  あくまで冷え冷えとした視線にいらだちを覚える。 「階位を偽る人狼がいるでしょうか。ひと族でもあるまいし」 「ほう。ひと族をよく知るか」 「ええ。冬三つほど、ひと族に紛れておりました」  笑顔を向けたまま言ったが、本気で腹がたっていた。 「私があんなモノと同じだと? ずいぶん見くびられたものです」  人狼が、この私が、ひと族と同じことをすると、そう思ったと言うのか。 「うわ、すっげー怖い顔になってる」  ルウも戦闘態勢を解いて言ったが、郷の正面に足を踏み入れてからずっと警戒し続けている。 「おーい、やめてくれよ。こいつ本気で怒らせたら面倒なんだぞー」  警戒は今も緩めていない。軽い口調で言っているが、ルウからは威圧がビンビン飛んでいる。 「面倒とは?」 「そっちのシグマは、理屈っぽい文句を、延々と、言い続けないのか?」 「ルウ、なんですかそれは」  思わず反論していた。 「あなたがいつも考えなしだから指導してあげてるんじゃないですか。あなたは少し考えて行動するべきですし、そもそも何を言おうと聞く気があるフリすらしないで聞き流しているくせに、その言い振りではきちんと聞いて反省しているかのようです。私を面倒と言うなら、せめて話を聞いてください。あなたが行動を変え……」 「なるほど」  ベータはフッとくちもとを緩め、小さく笑んだ。ルウもニッと笑う。 「な? こいつ、図太いんだよ」 「すまんな。測りかねたがゆえよ。怪しい人狼を入れるわけにはいかんのでな」  一応謝罪の言葉はあった、ということか。言葉を遮られたのも何故か納得されたのも釈然としないし、覇気は向けられたままだが。 「シグマなら今後も他郷へ赴くことがあろう。そういうものと心得よ」  諭すような口調が気に触る。とはいえ、ことを荒立てるのは得策ではない。 「……分かりました」  納得できないが、なんとか怒気を抑える。  疑った理由は納得できるのだ。  他郷のベータとはいえ、覇気は強い。実際ここのミュウは、ベータの覇気を向けられ威嚇を解いた。尾をまたぐらにしまいこんで、強者に従ったのだ。  しかし私もルウも従う事をせず、平常心で立っていた。他郷の人狼だからだろうに、このベータはそれが気に入らなかったのだ。  だとしても、ひと族ごときと同列に思われるなど、耐え難い屈辱だ。ぶすぶす針の突き出るような言葉を向けたくなる。いや、抑えねば。 「それで、私がどれほどの人狼なのか測れたのでしょうか?」 「いや」 「なんっだよソレ!」  威嚇を解かぬまま怒鳴ったルウに目を向けたベータは、クッ、と笑った。 「おまえは分かりやすい。分からぬはこのシグマよ」 「そうですか?」  負けるものか、侮るなと腹の中は煮えくり返っていたが、笑みで少し首をかしげる。  じっと私を見ていたベータは目を細め、眉を寄せた。  内心が目に出たか、と目を伏せる。  いけない。いくら腹が立ったとしても、今ことを荒立てるつもりはないのだ。  ベータは覇気を解き、ふう、と息を吐く。 「……そなたらはここで待て」  了解の意を示すべく、両手を胸に当て頭を少し下げた。 「勝手にうろつくなよ」 「うるせえ! 命令すんな!」  ルウが怒鳴り返す声に応えぬまま、ベータは駆けて行った。姿は樹間に消えたが、気配はまっすぐに強いものどもの集まる場へ向かっている。 「やっぱアレ、ここのアルファもいるんかな」  もちろんルウも強い雄が数匹いることは分かっているのだ。 「かもしれません。ひとまず、ゆっくり進んでおきますか」 「おう! よそのベータの言うことなんざ聞く必要ねえ!」 「まるで我が郷のベータの言う事なら聞くみたいじゃないですか」 「あ? 聞いてるじゃん」 「……自覚がないんですね」 「どーいう意味だよっ!」  歩いていると、正面の道のりをこちらへ向かう気配があった。 「さっきのおっさんじゃねえな」  ベータではないが、強い雄だ。呟いたルウが私の少し前に出た。  警戒は分かるが、また喧嘩腰になられても困る。 「大丈夫でしょう。落ち着いて」  私は苦笑交じりに横を進むよう促した。ちらりと私を見て横に並んだルウは、けれど警戒を緩めない。少し毛を逆立てている様子は、まるで怖れを感じているようにも見える。  腕を伸ばしてポンポンと背を叩いたが、ルウの力は緩まない。  しばらくして、木立の間から一匹の人狼が現れた。強い気配を持つ、堂々とした体躯の雄だ。年の頃は分からない。  体からは若い活力を感じるが、思慮深そうな表情は老練にも見えた。  敵意など欠片も見えない。覇気も威圧もなにもなく、むしろその顔には薄い笑みが浮かんで、優しげですらある。  なのに気圧されていた。  全身の毛が逆立つ。息が止まる。  気づくと足が止まっていた。  そのまま背を丸め地に伏してしまいそうなのを、なんとか堪える。我がアルファではないのだ。従う意志を見せてはいけない。  その雄はゆっくりと歩み寄り、私の前で笑みを深めた。 「面白いシグマというのはおまえか」  声は低く、まるで深い洞穴に響く風のように豊かな響きを帯びて、口調は優しい。  怖れる必要などない。威圧もされていない。けれど動けない。  スッと手が上がった。  その指が私の顎にかかり、顔を上向かせる。  朝ぼらけの空のような淡い青の瞳が、私の目を覗き込むように至近まで近寄った。 「紫」  喉が動かない。いや、まぶたも指先も、微塵も動かせない。ルウも動けないようだ。  青い目が笑みで細まる。 「気を楽に」  雄がそう言うと、なぜか息ができるようになった。すぐ横で、ルウが細く息を吐くのが分かった。 「おまえがシグマなのか?」 「……はい」  なんとか答えた声は細く、震えていた。 「ふ」  雄は鼻を鳴らすように、軽く笑う。  ここが『黄金の郷』と呼ばれる所以。  この郷のアルファは、必ず黄金の毛を持つ。  それを聞いて私は驚いた。生まれた小狼を見れば、次代のアルファが分かるのか問うと、そうではないと教えられた。  変哲ない人狼であろうと、アルファとなれば毛が黄金に染まるのだと。  そんな事があるのかと疑問だった。  けれど。  その雄は、金色だった。  頭部の毛も、眉も、睫毛も。すべて黄金だった。
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