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フッと目を細めた黄金のアルファは私から指を離し、チラリと目を動かす。呼吸が楽になった。
「そして……ルウ、か」
「はっ……」
あのルウが。我がアルファの前で、普段と変わらぬ明け透けなくちを開いていたルウが、目を合わせぬよう視線を落とし、両手を胸に当てて畏まっている。ハッとして、慌てて私も両手を胸に当てる。礼を表すのも忘れていた。
クッと笑った黄金のアルファはクルリと身を返し、森へと足を向けた。
そっと目を上げ、黄金のアルファの背を盗み見る。すぐそばに、さっきのベータ筆頭が控えていた。あまりにも絶大な存在に隠れ、気配に気づかなかった自らに臍を噛む。
その背中から滲み出るものも意図せぬ威圧を与え、変わらず格の違いを思い知らせ続けてくる。
―――落ち着け。
細く息を吐く。あの瞳を見つめなければ息はできる。落ち着いてすべきことを為すのだ。他郷のアルファに惑わされていては、務めを果たせない。
「そちらのアルファには礼を向けねばなるまい」
その背から心胆まで深く響く声が、朗らかな響きを帯びて齎された。
「は……」
「我が郷の危急にそなたらを差し向けたのであろう?」
「は、いえ、……」
……そんな必要はない。我がアルファは……
そう言いかけて喉を閉じる。たとえ思っても、くちに出すべきではないことだ。
「無用のこと、だったかもしれません」
「ほう」
黄金の首が僅かに動き、淡い空色の瞳がちらりと私を見て、にっこりと笑みを深めた。
五十歩は離れているのに、知らず息を呑み、魅せられたようにその目を見返していた。それに気づいて焦りつつ目を伏せる。
ダメだ、務めを果たすのだ。
「……叶うなら」
喉が閉じようとするのは、歴然と力の差のある相手への畏怖から。本能が人狼をそうさせる。しかし務めを果たすため、いかなるものも捩じ伏せねばならない。怖気ている場合ではない。
閉じようとする喉を必死に開いた。
「……我がアルファに報告するため、郷を見させて、いただき、たく」
声は細く、僅かに震えてしまう。私は目を上げ、アルファを睨むように見た。
黄金のアルファは、ルウではなく私を見て、薄く笑んでいた。
「良いだろう、その目で見定めよ。ベータ]
「はっ」
「空いた巣を宛がってやれ」
「はっ」
心からの畏敬と共に、ベータが請がう。
アルファはベータを見ることなく、視線を森の奥に向ける。視線が外れ、私は目線を下げ、小さく頭を下げていた。人狼が睨み据えた弱い獣が為す術なく喰らわれるように、ただ呼吸することすら憚られ、否応なく従わされてしまっていた。
そう考えたのは、しばし経ってから。
アルファが立ち去ったことすら気付かず、放心してしまっていた。
生き物として圧倒的。明らかに格が違う。
これが、アルファ、なのか。
ならば。
これがアルファという存在であるなら。
我が郷のアルファは、あれはいったい、なんだ?
そう思わずにはいられなかった。
◆ ◇ ◆
我が郷には百匹以上の人狼がいる。人狼の郷としては、かなりの大所帯だ。
といってもうち四十匹ほどは老いたものと若狼で、実質働く人狼は六十数匹といったところ。そのうち二十匹近くが狩り、次に多いのは採りで十数匹、他の階位は役目により数匹から二~三匹、といったところ。一匹しかいないのは森林、そして精霊師だ。子狼や幼狼は人狼として数えない。
ベータと共に現れた若いシグマによると、黄金の郷にはおおよそ三十匹ほどの人狼が居るらしい。平均的と言えるが、老いたものや若狼を含んでいないかもしれない。いや、そもそも事実ではないかもしれない。
私たちはあの後すぐにこの棲まいに導かれたのだが、あまり手入れされていないらしく荒れていた。葺かれた葉には隙間があり、柱も腐りかけている。
あえて朽ちかけの棲まいを宛がわれたか、あるいはこの郷の大工は仕事が杜撰なのだろうか。しかしあのアルファの元に務めを全うしない人狼がいるとは思えない。ましてアルファが行動を認めた他郷の人狼に、こんな扱いをするだろうか。
我が郷のアルファなら、他郷の人狼を遇するに最も新しい立派な棲まいを見せるだろう。我が郷がいかに偉大か見せつけるために。しかし……
黄金のアルファと見えたなら、そんな必要はないと考えてもおかしくない。棲まいなど些細なことだ。偉大なアルファが率いる郷。それだけで人狼には十分、畏敬を齎す。
「なんつうか、落ち着かねえな!」
「……ですね」
ここは、慣れ親しんだ森とは何もかも少し違う。
少し違う草が生え、違う果実が実り、違う虫が這い、飛ぶ。
棲まいを葺いた葉の種類も、寝床に敷く草の匂いも違ったし、棲まいの作り自体が違う。
狩りをしていないので、どのような獣がいるかは分からない。それでも、我が郷の中でも水の道一つ越えれば生息する獣が変わったのだ。山を挟んだこちらも違うと考えるべきだろう。
カイと別れたのが早朝。正面に至ったとき、陽は中天にあった。
黄金のアルファと見え、導かれたころには陽が落ちかけていたが、この棲まいに至るまで、他の人狼には出会わなかった。
ここはベータの棲まいからほど近い。動くなら案内するので声を掛けろと言われている。つまり勝手にうろつくなと言うことだ。
そしてようやく月が登る頃合いとなった。
人狼が活動し始める。
「せっかくですからこの郷を見聞きしましょうか」
「なんだよソレ」
「他郷の情報を集めるのもシグマの仕事です。遊んでいるわけにもいきません」
「遊んで、ねえ?」
カイはしっかり働いているのだろう。少なくとも他郷の人狼が入り込んだと騒ぐ様子は全くない。
ならば、カイ筆頭を探し当てたカイが連絡しに来るまで、怪しまれぬよう行動しなければならない。それに正直、ここが我が郷とどう違うのか興味もあった。
新たなアルファを戴いたときの我が郷を考える、よすがになるだろう。
などという想いは面にも気配にも出さぬよう気を付けつつ、私は宛がわれた棲まいを出た。ルウもニヤニヤしながらついて来る。
良くも悪くも変わらないルウの気配に少し癒されながら、私はベータの棲まいへ向かう。すぐに察知したベータ筆頭は、若いシグマに私たちと共に行くよう命じた。
森を経巡り、棲まいをいくつか見る。
この森の樹々は、我が郷のものより背が低いようだ。まっすぐ伸びた樹木は少なく、大きな葉と曲がりくねった幹の樹木が多いし、あちこちに蔓が蔓延っている。もしかして、この森には森林がいないのかもしれない。
この郷の棲まいには真ん中の太い柱が無く、細い四本の柱を撓めて、強い蔓を使って上でまとめ、その上から大きめの葉で葺いている。建屋らしきものは見えないが、一応聞いてみる。
「建屋は無いのですか?」
「たてや? ってなんですか?」
若いシグマは、好奇心を隠さずに訊ねて来た。
「地面より高い床を持った建物です。平らな板と釘を使い、建てます」
「へえ? ひと族みたいな?」
聞けば、このシグマは近くのひと里へ何度か行ったことがあるらしい。
「そういうのはないですね。我らは人狼ですから」
すべての人狼は同じような造りの棲まいを使っている、と言いたいようだ。いや我が郷のやりようが人狼らしからぬと言いたいのか。
「商人は何を持ってくるんです?」
「ああ、我が郷にはひと族の番を持った者はいませんよ」
「そうなんですか」
「だってあれ、なんか気持ち悪いですよね。人狼じゃないでしょう?」
あくまで朗らか、ニコニコしているが、我が郷にひと族の番を持つ人狼がいるのを気持ち悪い、と言っている。明らかに我が郷への当て擦りだ。己が郷を誇るのはいい事だが、一応客人である我らを下げる必要はないはず。
ルウも同じことを感じたか、イラっとした気配を出す。若いシグマは慌てたように手を振った。
「まあ、私は若輩ですから。古きを知るシグマに聞けば知っているかもしれません」
「ふう~ん、俺らはおまえみてーな若輩が相手すればいいって、そう言ってんだな?」
「いいえ! そういうわけでは!」
ルウが分かりやすく威嚇すると、若いシグマは慌てたように言葉を継ぐ。
「今、手が空いているのが私だっただけで!」
「まあ、こちらの森には板を造れるようなまっすぐな樹が少ないようですし、建屋を造ろうとしても難しいでしょうね。それに商人は便利ですよ?」
にっこりと告げる私に、若いシグマは朗らかに笑い返した。
「そうなんですか?」
「ええ。わざわざひと里へ行かなくても塩を運んでくれます」
獣を喰らい血を啜れば無くとも問題ないが、あれば便利なのが塩だ。燻し肉を造るにも、果実を保存するにも、塩があれば長持ちする。しかし森で塩を得るのは困難で、我が郷では商人が定期的に塩を運んでくる。
このシグマもひと里へ何度か言ったと言っていたから、おそらく塩を求めたのだろう。
「それに柔らかい布や、紙やペン、地図なども運んでくれる。古き知恵を残すに、葉や板を削ったものでは読めなくなる恐れがありますから、紙に書き写して長く伝える術とするのです。私は今、古き知恵や偉大な人狼の記録を紙に書き写しています」
「へ、え。なるほど。でも我が郷では口伝が基本です。代々伝えられていますので、書き残す必要はないのです」
「それは素晴らしい」
私はにっこりと笑い返す。
「我が郷にも口伝はあります。ただ口伝えだけでは正確さに欠けることも分かっています。古き知恵をひも解くと、今伝えられている口伝との相違も散見され、時の移ろいにより変わっている部分の検証も興味深いです。少しずつ変わってしまう口伝との相違や変化した原因の検証もシグマの仕事ですね」
「……そうですね。シグマの仕事、です」
若いシグマの笑顔が引きつってきた。私は笑みを深め、シグマを見つめる。
我が郷を誇るのは良い。だが他郷も重んじるべき。
先輩シグマに口を酸っぱくして言われていることだ。
つまりこのシグマは、まだそういう仕事を任されていないのだろうか。
「シグマは他郷との交流をする階位です。郷に誇りを持つのは素晴らしいことですが、シグマなら考え方を変えるべきでは?」
「……そうですね」
未だ引きつりつつ、にっこり笑った若いシグマに私もニコッと笑い返した。
顔はなんとか保っているようだが、匂いに悔しさや憤りが出ている。
「おまえさ、こいつに口で勝とうと思っても無駄だぞ」
「いえ、そんな」
ルウが声をかけると、シグマは慌てたように手を振った。
「つうかシグマ! おまえも虐めといてイイ笑顔してんじゃねえよ!」
「そんなことはないですよ? なんですかルウ、人聞き悪いですね。先達として仕事を教えただけです」
「はあ~? 先達って……! おい分かったか? コイツこういう奴だからな、おまえもおとなしく案内しとけ」
「……はい」
笑顔を引きつらせつつ、若いシグマは森を進む。細い水の道がちょろちょろと流れている場に出た。
「この先で水の道が暴れたんで、そっちへ行きましょう」
「それは後日でいいです。人狼が集まる場所は?」
「あなたたちは行けない場所ですよ」
「禁じられたんですか?」
「いえ、あなたたちは水の道が暴れた後の様子を見るのが目的と聞いてます。それ以外は知る必要ないでしょう。あそこは他郷の人狼が入るべきではない」
「こちらの郷が困窮していないか見るために来たのです。人狼が健やかに生活しているところを、私たちに見せてください」
若いシグマは、面にはっきりと憤りを見せた。
「あなたに命じられるいわれはない!」
声は抑えているが、気配にも匂いにも露わな憤りが見える。
分からないではない。他郷の人狼に命じられ従うなど、まして同格の人狼に諭されるなど面白くないだろう。
けれどこれではシグマの務めを為しているとは言えない。もしかしたら成人したてなのだろうか。未熟というしかないが、務めを全うできなければ階位を降りる。それが人狼のはず。
だから私は笑みを深めた。
「では、ベータ筆頭に確認します。案内してください」
するべきではない態度を取り、言うべきではない事を言っていると自覚するが良い。
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