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若いシグマの説明を聞いたベータ筆頭は、あからさまな渋面を作って軽く手を振り、去るよう伝えた。それに従い悔しげに顔を歪めたシグマが去るのを見送ることすらなく気配と表情を整え、ベータ筆頭は私達に顔を向けた。
「そなたらも巣に戻れ」
「彼に何を命じたのです?」
向けた問いには何も語らず、行けと言わんばかりに手を振るのみのベータ筆頭。匂いも隠しているので何を考えているかは分からないが、苛立っているのは分かる。
だがおそらく、私がなにかに興味を持つのを避けたかったのだろうと推測はできた。
出ていた指示は、見せて良い部分だけでお茶を濁し、適度なところで満足させるように、といったところか。
なのにすべてを隠そうとしたあの人狼の言動は不自然だった。あのシグマの未熟を読めなかったのはベータ筆頭の落ち度だろうに。私たちが不快を感じ、疑いを持ったことに苛立っているともとれる。
「やはり、なにか起こっているのですか」
「改めて案内するものを向かわせる。それまで待て」
結局ベータ筆頭は言を左右し続けつつ、私たちを巣まで送り届けた。
「我が郷で助力できることなら力になれます。深刻な被害が無いのなら元気な人狼たちを見せてください」
「分かっている」
「郷を見るのが難しいなら、話を聞かせてください」
「……後で向かわせる。ここから出ないように」
巣に入るのを見届けてから去るベータ筆頭の気配を感じつつ、私たちは険しい目を合わせた。
あくまではぐらかすので埒が明かないと従いはしたが、疑念は深まるばかりだ。
「んで!? どうすんだよ!」
ルウが苛立たしげな声を出す。
人狼三匹が、気配も隠さず周囲にいるのが分かった。見張りを置かれたのだ。周囲の人狼からは緊迫感すら感じ取れる。ここから出るなと示威しているのだ。
「……待ちましょう」
「次の案内が来るまでボーっとしてろってか!」
「そうして欲しいのでしょうね、彼らは」
何かを隠したがっている。そうとしか考えられない。
私たちも他郷で自由に動けるとは思っていないのだし、警戒しているとあからさまにして当然なのだ。それをああも不自然な態度を取られると、こちらも何かあるとしか思えないではないか。腹の内を悟らせないつもりだろうが、我が郷のベータ筆頭と比すれば未熟としか思えない。
「イイ感じしねえよなあ!」
「ですよね。ずいぶん警戒されているようですが」
しかし今一番優先すべきはカイと連携することだ。
カイ筆頭の動向が分からなければ、どう動くべきか判断できないし、軽々に動いて所在が分からなくなるのは悪手。ルウもそうと分かって、あえて大声を出している。
聞き耳を立てている人狼どもに、あえて聞かせているのだ。
若いシグマは、郷の成獣が三十匹ほどと言っていた。だとしたらそのうち三匹をこの周りに置くなど多すぎではないか。
確かに他郷の人狼か勝手にうろつくなど認められないだろうし、牽制は分かるけれど度を過ぎている。
しかしなにより、カイからの接触がまだ無いのが、ひどく気になっていた。
カイは筆頭の所在が分かると言っていたのに、まだ見つけられないとは考えにくい。もし捕らえられていて近づきにくいのだとしたら、カイならその旨を報せてくるだろう。
たとえ周囲に他郷の人狼がいても、それくらい容易にできる。なのに一切連絡がない。
潜んでいるなら気配も匂いも感じられないのは当然だが……
「……匂いは?」
私には感じられなくともルウなら、少しでも分かるのではと聞いてみたが、ルウは悔しそうに首を振った。
「さっきから探してるけど分かんねえ。隠れてんだろーな」
「そうでしょうね」
よく知るルウにすら感じ取れないということは、この郷の人狼にも悟られないということだ。
そうだカイは本当に優れている。信じて待っていれば良い
なのに妙な焦燥を感じてしまう。仲間を信じきれない私が至らないのだろうか。
◆ ◇ ◆
ベータ筆頭の言った案内、あるいは話をする人狼は、二夜経ても来なかった。
いつまで待たせるのかと棲まいまで行って問おうとしたが、周囲に潜む人狼に阻止される。見張りの人狼は隠れる気などさらさらないようで、一歩も出るなと牽制してくるのだ。
カイからの連絡も無い状況で、いたずらに事を荒立てるのは望ましくない。
私たちは交替で休みながら、気配と匂いを探って時を過ごした。
夜ごとに月は欠けていく。
新月になれば、精霊に親しまれる人狼の方が地力で勝る。時を過ごすほど不利になるのは分かり切っていた。
だからこそ私もルウも、月が満ちているうちに事を済ませたかったのだ。筆頭を見つけたカイと共に、すぐここを出て我が郷に戻る。その予定で動いていたのだが。巣の周りの気配は四匹か五匹に増えたけれど、カイなら見張りの人狼に気取られること無くこの中に現れるくらいできる筈だ。
なのに連絡がまったく無い。
焦燥が募り、ルウも苛立ちを深めていた。
◆ ◇ ◆
あと夜五つで新月になる。
そんな夜。ふと耳を立てたルウが呟く。
「カイが来たぜ。ようやくかよ」
「……いいえ」
ニヤリと笑ったルウに、私は首を振る。
確かに私も風が動いたのを感じた。これは『音封じ』だが。
―――これは私の良く知るカイではない。
「よお~」
葺いた葉の隙間から月明かりの落ちる巣の中。
突如、小柄な人狼が現れた。
濃茶の毛。暗い緑の瞳。
カイ筆頭だった。
だがニヤリと笑う顔が精気に満ちて、かつての茫洋とした印象を持つカイ筆頭とは別の人狼のようだ。
「手間かけさせたなぁ~」
「……カイは」
思わず声を潜めて問うた。
「あぁ~、ちょい~っと来れねえつうかなぁ」
「どういうこったよ」
ルウが低く唸る。私も警戒の気配を隠さない。
姿は、声も、確かにカイ筆頭。けれど違う。気配が、匂いが、違う。
「いったいなぜ? なにがあったのです」
「ちょいっと閉じ込めた、みたいな感じだけどぉ~、あいつは大丈夫だよぉ」
「……どういうことです」
「ああ~、そりゃなぁ~」
カイ筆頭はニィっと笑った。
「ここの精霊がぁ、オレのこと気に入ったみてぇでさあ~」
「まさか……」
自らの森から離れ、他の森の精霊の言祝ぎを受ける。番探しで我が郷に来た人狼に起こることだ。
「この郷の人狼と番に?」
「ああ? ちが~うよぉ。そんなんじゃねえ~の」
そうでなければありえない筈。
……いや。
思い出した。シグマの建屋にあった記録だ。
「では……郷替え、ですか」
古き時代、とある人狼はアルファを見限って郷を離れたが、我が郷を訪れて精霊の言祝ぎを求め、受け入れられたという。
その人狼はわが郷にて階位を得、働くうちに番を得て子を成し、精霊に言祝がれて失われるまで郷と精霊に尽くしたのだと。
生まれ育まれた精霊とアルファから離れるなど考えられない。そう思っていた。けれどその記録を見て、ありうることなのだと知り、衝撃を受けたのだ。
カイ筆頭は報われなくとも次代を育てようと力を尽くしていた。本能を殺すような仕事を続けつつも、郷やアルファに反抗的であったことはなかった。けれど、そうだ。私自身カイ筆頭に共感したではないか。
カイ筆頭には、あのアルファを見限ってもおかしくない動機があったのだ。
しかし唸り続けるルウはかえって警戒を強めた。
「は!? 郷を裏切ったのか! ありえねーだろっ!」
「うう~ん、それはぁ、どうなんだかなぁ~」
カイ筆頭、いやもう違う、濃茶の人狼がせせら笑う。
しかし、精霊の言祝ぎを受けるには、成人の儀を超えなければならないはず。それにはガンマの森に入らねばならないが……
「ガンマの森は、流れたのでは」
「ん~、そう聞いたんだけどさぁ」
カイ筆頭であった農茶の人狼は、だらけた口調で話し始めた。
郷の人狼に察知されたと感じたとき、自らに注意を向けさせカイを郷へ返そうと、あえて気配を露わにして、水の道が暴れた後も痛々しい森を走った。
追う気配が自らを追跡していることを確認してから、気配を消して更に奥へと走り続けた。ときに気配を表して撹乱し、また気配を消して追手から逃れることを続けるうち、夜をいくつか超えた。
迷い込んだ場所で方向がどうしても掴めなくなり、森を出ることができなくなった。そのとき言いしれぬ怖れを感じていて、それがガンマの森で感じるものと同質と分かった。
そこがガンマの森であると仮定すれば、人狼が近づかない場所だ。カイ筆頭だった人狼は、あえてその森に潜み続けた。
カイの務めの経験があるから、気配や匂いが分からなくとも耐えきれると自負していたからだ。
けれど進むごとに、全身に纏わりつくなにかが動きを阻むようで、怖れは強まっていく。正気を保つのが困難なほど恐ろしかったけれど、それでもあえてより強い怖れを感じる方へ進んだ。
とにかく捕まるわけにはいかないと、その一心で。
やがて体から力が抜けて足を進めることも難しくなり、視界は朧に、呼吸すらまともにできなくなっていく。
気づいたら地に伏していた。
そのとき爽やかな気配を感じ、濃茶の人狼は少し楽になったと感じ、なんとか目を向けると、白っぽい人狼が見下ろしていた。
それがガンマだった、というのは後に分かったことで、そのときは意識がフワフワとして、苦しさは去り、まるで成人の儀で庵に潜り込んだときのような心地よさに包まれた。
何も考えず、すべてを手放し……それは精霊に、森に、受け入れられている、そんな感覚だった。
そして目覚めた時、生まれ変わったことを知った。
なにかに導かれるまま森を抜けると、この郷のガンマが待っていた。
共に進んでシグマに迎え入れられ、黄金のアルファと対峙したとき、完璧に分かった。
黄金の森こそが『我が郷』なのだと。
「んで~、お前らが来てるって言われたわけ~」
「ガンマの森は無事だった、と?」
「みてぇだなあ~。よく分かんねえけど」
この濃茶の人狼は、黄金の郷の人狼となった。
どんな階位を得たかは分からない。ただ、以前より強く活き活きとした気配を発する姿に、迷いは無いように見える。
「……では、カイは」
「だぁ~いじょ~ぶだってえ。オレだってあいつが可愛いんだよ~」
「あいつは!」
ルウが怒鳴った。
「あんたの気配が薄くなったって! めちゃくそ心配して、泣いて、すぐに追いかけるって騒いで!」
「あ~。聞いた聞いた」
「そんでなんで! あんたツラっとしてんだよ!」
「……ルウ」
声をかけ、私は首を振った。
ルウは知らないのだ。
我が郷のカイ筆頭だったこの人狼が、どれほどの仕打ちを受け、それでも郷のためにと働いていたのか。
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