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「分かったよ。約束するよ」
「必ずですよ?」
片方の角を掴んだまま牙を見せて笑うと、クィーナは怯えの匂いを膨らませる。
「必ず! 来るよ! 約束するよ!」
「よろしい。ルウ、もういいですよ」
角から手を離しクィーナの背から降りると、身を潜めて後をついて来てたルウが私の横に現れた。
「えっ!?」
クィーナはぴょーんと後ずさる。ルウが距離を詰めるとその場に四つ足を折り、ごろんと獣体を横たわらせて腰から上、ひと形の部分だけ起こして両手を挙げる。いきなり激しく発汗して酷い匂いを滲ませ、頭の毛も獣体の毛も、瞬く間に汗でぐっしょりになっている。
「やめて! 痛いことしないで!」
降参の仕草なのだろう。やはりルウに対する恐怖の方が強いようだ。
「しねーよ! 約束したからな!」
「えっ、でもだって、どうして!?」
「なにがだよ!」
怯えと混乱で匂いがどんどんひどくなる。けれどこの匂いが激しい怯えだと覚えておかなければ。山のものの感情は分かりにくいのだ。
「いなかったよっ!! いなかったっ!!」
「すぐ後ろにいたぜ! ちゃんと言うこと聞くか見張ってた!」
ルウはわざと牙を剥きだしてニタァと笑う。
「う、嘘だ! 見えなかった!!」
人狼は気配や匂いを抑え、狙う獲物に近づく。そうしなければ獣は逃げてしまうからだが、どうやら山のものにも有効なようだ。
「でも、いたんです」
「だって……おいら目はいいのに……っ!」
ルウに気づかなかったことに衝撃を受けているようだが、やはりこの生き物は獣に近いのだろう。これが人狼相手ならカイのような技能が必要になる。
「おまえ目がいいとか嘘なんだろ!」
「ほんとだよっ! だって……ほら、見えてるよあそこ! あんときのもう一匹、樹の間にいる! ほら川のそば!! あれ? 知らないのいる!」
「へえー!」
ニヤニヤしながらルウが声を上げる。
クィーナが示す方向には、確かにカイとカイ筆頭の気配がある。匂いに鈍いくせに二匹いることが分かるのなら、確かに見えているのか。けれど見える筈がない。
祠の上に突き出した岩棚に登れば遠くまで見渡すことはできるだろうが、水の道の周りは茂る木々があり、その間を進む二匹まで視界が届くような場所ではない。そして頂の祠は傾斜が緩やかで広い上に崖から離れている。この場所から遥か下を見通せるわけがないのだ。
「カイたちが? 見えていると?」
「そうだよ! 濃い茶色のやつと! ね! おいら目がいいだろ!」
なるほど、カイ筆頭の毛は濃茶だ。色が分かるというなら見えていると判断するしかない。
とすると山のものには単純な視力以外の『目が良い』能力があり、それを『見える』と言っているのかもしれない。
鼻も耳も悪い癖に、人狼と違う能力を持っている……ということは。
私は思わぬ発見に満足し、にっこりと笑った。
「素晴らしい。本当に目が良いのですね、クィーナ」
大袈裟に褒めながら角の間を撫でてやる。クィーナは四つ足を折って蹲った体勢のまま見上げて来る。
表情の分かりにくい顔は、物欲しそうにも見えた。
「うん! おいら嘘つきじゃないよ! 大丈夫だよ! いうこと聞くよ!」
「そうですか。ではちゃんとやってくれたなら、ご褒美をあげましょう」
「ご褒美!!」
瞳孔が横に長い目が、きらりと輝きを増したように見えた。
「んじゃ、あの、おいしいの! あれがいい! けど……」
「おいしいの?」
「うん! 酸っぱいのじゃなくて、おいしいの!」
「……ああ、干し果実ですね」
そういえば、ラムウの実で起こした後、ルウにおびえたクィーナを落ち着かせようとカイが与えていた。私の分まで喰らっていたから気に入ったのだろう。
「では今、あげましょうか」
布袋から干し果実を取り出すと、クィーナはぴょんと体を起こした。
「わ、やった!」
「今はこれしかありませんが、どうぞ」
貪るように喰らっているのを見て、私は角の間を撫でてやる。
「本当に気に入ったんですね。では私が山裾に来たとき、きちんと顔を見せたら、これをたっぷりあげましょう」
「うん! おいら、ちゃんとやるよ!」
すぐに食い終えたクィーナは、何度も頷いた。
◆ ◇ ◆
飛び降り続ければよいから、登るより降りる方が楽だし早い。
私とルウは斜面を降り、山裾を進んで来たカイたちと落ちあった。
「お~、用事済んだのかぁ~?」
「あいつ、言うこと、聞いた?」
カイが心配そうに聞いて来た。
「あれ、うそ、つき、だから」
「そうですね。ですが取引はできました」
「とりひき」
「はい。あなたの作った干し果実が気に入ったようなので、それをエサに。だからカイ、今度また持って来てくださいね」
「ん。いいけど。……あいつ、に、やる、の?」
少し不満げなカイの髪を撫でると、くちもとがふにゃりと緩んだ。
やはり可愛いと思ってしまい、私も目を細める。するとカイ筆頭が口を歪めて笑った。
「マァジでこれ、誤解するよなぁ」
「……なんです?」
「いーやぁ、なんでもねぇよぉ。てかルウさぁ、お前コレ見てて何も思わねえのぉ?」
半笑いでカイ筆頭が問う。しかしルウはまだ喧嘩腰だった。
「コレってなんのことだよ!」
やはり信用ならんと思っているらしい。
「だぁってさぁ、こいつら仲良すぎじゃ~ん?」
「はあ? 子狼の頃からすーっとこうだぞ! 何がおかしいってんだ!」
「ええ~……」
二匹が喧嘩のような、ふざけ合っているようにも聞こえる会話をしている。
先頭がカイ筆頭、ルウが続き、次に私、最後尾がカイという順に列を汲んでいるのだが、実はカイは、筆頭のすぐ後ろを進みたがった。最後尾を守るより筆頭に従うことを望んだのだ。
それと知りつつこの順にしたのは、ルウが最後尾となるのを、私が怖れたから。そしてカイ筆頭はルウの威嚇など気にならぬようだったからだ。
まずルウの猜疑を解かねばならない。最も戦闘力の高い人狼が背後から疑いの気配を飛ばしてくるなど、落ち着かないこと甚だしい。
我が郷には、あと一晩とかからず着くだろう。我が森を抜けるのにもう一晩というところ。
到着したならアルファに報告せねばならない。
その時カイ筆頭が他郷の言祝ぎを受けていると伝わらないようにしておかねば。基本的に私が報告するとしても、その場にいるルウが何を言い出すか分からないのはまずい。
私はちらりとカイを見る。筆頭のすぐ後ろを歩くカイからは、とても嬉しそうなな気配が滲んでいる。狼の姿なら尾が盛大に振られているだろう。
「ルウ?」
「あ? なんだよ!」
「カイのこんな嬉しそうな様子を見るのは久しぶりですね」
「……ああ、まあな!」
ルウもカイに目をやり、ため息まじりに頷いた。
「カイには筆頭のそばに控えることが大切なんでしょう」
「……まあ、そうだな」
「考えたんですが……このまま報告すると、あの人狼は捕らえられるか郷を追われるでしょう」
「まあそうなるな……。けどよ! だからって!」
「分かります。正直、色々と気になる部分はありますし。ですから考えたんです」
少し目を伏せ、私は言った。
「カイの為というのもあります。黄金のアルファが言っていたことも関連しているんですが」
「は? なんだよそれ! あの金色に何言われた!」
気色ばんだルウは足を止めずに私を睨む。
私は少し笑んで見返した。
「ルウ、少し様子を見ませんか」
「おい! 何を言われたんだって!」
「今は言えません。ベータ筆頭かアルファに判断を仰がなければならないけれど、場合によっては我が郷の為にもなるかもしれない。なので慎重になった方が良いと判断しました」
「……アルファに報告、すんのか?」
「当然です。アルファの命で他郷へ赴いたんですから、詳細を伝えなければならない」
「そんで追い出せってなったら、おまえどうすんだよ」
「カイには可哀想ですが、その時はアルファに従いますよ。当然でしょう?」
「ああ、そりゃそうだ」
天を見上げるように背を逸らしたルウは、ハッと息を吐くと水の道の向こうに見える黄金の森に視線を動かす。そろそろ水の道の分岐だ。そこを越えると黄金の森は山の向こうとなり、我が森が見えて来る。
「ルウ? どう思います?」
「どうもこうも、おまえ決めてんだろ!」
「そうですけど」
「いいよ! そこ分かってりゃいい! だよな! お前だって我が森の人狼なんだ! なんか変なこと考えちまってた!」
「変なことですか? あなたらしくないですね」
二ィっと牙を剥きだして笑い、ルウは私を見る。
「バカにすんなよ! これで俺だって考えてんだ!」
「知ってますよ」
「嘘つけ! いっつもバカにしてんだろ!」
「バカにはしてますが」
にっこりと笑みを向けると、ルウはいつも通り憤慨する。
「ほら! その顔やらしいんだよお前!」
「失礼ですね相変わらず。普通の顔ですよ」
「ああ~、始まった! 勝てねえやつ!」
確かにルウは本能に従順で衝動的、だが賢い人狼だと知っている。
だからこそ、こんな話をしているのだ。
「すぐ勝ち負けで論じるのがあなたの浅はかな所です。だから馬鹿にしてしまうじゃないですか。あなたのせいです」
「うあ~! うるさいうるさい! わーったよ!!」
とくに声を潜めたりしていないので、この会話はカイたちにも聞こえている。
その方がルウの警戒が薄まるだろうと思ってのこと、そしてカイ筆頭にはこの会話で通じるだろうとも考えた。ルウがこの状態なので、カイ筆頭と直接会話するのが憚られるのだ。
アルファの判断を仰ぐと言ったことで私への猜疑は薄れたと思う。カイ筆頭についてはそうもいかないだろうが、しばらく時間を稼げればそれでいい。
「ま、なんかあったら俺が喉笛噛み千切ってやる! それで済む話だったわ!」
「また単純に考えすぎですよ、ルウ。まあ、簡単にやられはしませんが」
笑みのままそう返すと、ルウはひどく機嫌良さそうに大声で笑った。
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