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アルファの館を出たルウは、「じゃあな!」の一言で飛ぶように走り去った。
すぐに見えなくなったが、千切れるほど尾を振っていたから番の元に行ったのだろう。
「あ~らら。どんだけガマンしてたんだろ~なぁ、あれ」
「番持ちはみんな、あんなものでしょう」
苦笑と共に見送りつつ言うと、後ろから服をつんつん引かれた。カイだ。
「巣、いく?」
「はい。棲まいに戻って休みます」
「いっしょ、行く」
「でも、カイも疲れたでしょう。ゆっくり体を休めて?」
「おれ、すごく、元気」
「おお~ぅいぃ~、おまえはオレと一緒だよぉ~」
カイが目を向けると、筆頭は片手で頭をグリグリ乱暴に撫でる。
「……なんで」
手を避ける素振りはないが、顔は不満げだ。
「あ~らら、そんな顔してぇ」
「だって」
「たぶん~だけどもぉ。オレらすぐ呼ばれるし一緒にいた方がイイ~、と思うンだよねぇ」
「呼ぶ、だれ?」
「さぁ~て、誰だろぉねぇ~」
ヘラりと笑う筆頭をじっと見つめていたカイは、しばし経ってコクンと頷き、私に真剣な目を向けた。
「あとで、行く」
「来ても寝ていますよ」
「いい。いく」
「ほぉ~ら、行くよぉ~」
首後ろを掴まれ、筆頭に引きずられるように去るカイを見送りつつ、私はホッとしていた。
カイのことは可愛いが、私には誰より早く逢いたい者がいるのだ。けれどカイには、まだ知られない方が良い。
……などと考えるより早く、私の足は走り出していた。
すでに傾き始めている月は満ちつつあり、力が漲って感覚は鋭敏になっている。
けれど私は、黄金の森にいて新月を迎えても、ずっと感じていた。その芳香は、私の鼻の奥に感応するようにその存在を知らせていたのだ。
そしてこの森に入ってすぐ、どこにいるかはっきりと分かった。
けれど私は、走ってそこへ行きたいという衝動と戦いながらアルファの元へと進んだ。おそらくルウも同じだろう。
人狼にとって最も重要なのはアルファに従うこと。だがそれにも負けぬほどの強い衝動を呼ぶものが、番なのだ。
我が番。
一刻も早く、あの愛しい狼のそばへ行きたい。
ああ、向こうも気づいている。私を待っている。そう感じる。私には分かる。心は逸り、足は止まらない。気づけば狼に変化し、体に服を引っ掛けたまま駆けていた。酷く不格好だろうが、気にならない。
それより。
逢瀬の場、あそこに、いる。早く。
早く。早く。早く。
狼となり鋭敏になった鼻は、愛しい香りの居場所へと私を導く。
水の道に出て上流へと駆け抜ける私の鼻が、愛しい匂いが近づいて来るのを感じ取る。
近い。
もうすぐ―――
Wow oh oh oh oh oh oh……ohn
耳を打つ遠吠え。ああ番の吠え声だ。気付くと私も喉を震わせていた。
私と、番と、二匹の遠吠えが共鳴する。
ああ、なんて歓び。
番が遠吠えを放ちあうのは良くあること。それを咎めるものなどいない。私はずっと羨ましく思っていた。それを今、自分が我が番と吠え声を合わせている。心が歓喜に震える。
それに、ああ、愛しい匂いがする。
折り重なる樹木は愛しい姿を見せない。けれど愛しい匂いへ最短で至る道は自ずと分かった。全身を使ってそこへ向かう。時に樹木を蹴り、太い木の根を飛び越え、幹を避けて蛇行し……
匂いが、どんどん近づいている。鼓動が早まる。
「菫の白蜜!」
我が名を呼ぶ声。深く響くそれは耳から入って身の奥底へ染み、魂は歓びを訴える。
声には言霊が乗って、愛しいと、共に在りたいと、その想いを私に伝える。
身体はさらなる力に漲り、激しい鼓動に息が苦しいほどだ。ハアハアと呼吸するくちは半開きになり、牙の間からダラリと舌が出てしまう。なのに足は止まらない。
いや、もっと早く、少しでも早くと全身を使って―――
銀灰の狼が、樹木のあわいから飛び出した。
「白銅の銀鼠!」
喉が震え、知らず名を呼んでいた。
大きな体躯が歓喜に震えつつ私に向かってくる。足を止めずにいた私と、ぶつかるように身を寄せ合い、乱暴な円を描きながら互いを甘噛みした。
千切れるほど尾を振り、鼻を擦りつけ合い、耳や首根を甘噛みすると、愛しくも香しい匂いがこの身に宿る。ああ、嬉しい。私の匂いも擦りつけ、私たちの匂いは混ざり合う。
同じ匂いを纏う。ああ、なんという歓び。
私はこの狼のものだ。
これは私のものだ。
執拗に体を擦りつけ合い、鼻を擦りつけ合って、私たちはようやく少し落ち着いた。
それでも鼻を触れ合わせることは止められない。
「そなたを……それだけを感じていた」
「私も……私も!」
離れようと繋がりが切れぬことに歓喜しつつ、それでも早く戻りたい、匂い合い触れ合いたいと、いつも考えていたように思う。
けれど同時に思ったのだ。
「あなたの為に……なりたくっ」
この愛しい狼の為に、私ができることを全うせねば。
そう思えば冷静に成れた。思わぬ胆力も出た。黄金のアルファを前にして折れなかったのは、この番から貰えたちからのおかげだ。
「分かっている。そなたの想いは伝わっていた。酷く動揺したのも、苛立っていたのも、それを抑えねばとしていたのも……我がためと……伝わっていた」
「私も、感じていましたっ、あなたが、あなたの力が……強まって、嬉しくて、励みに……っ」
分かっていた。分かってくれると知っていた。そして我が番の力が以前より強まっているのも感じていた。
私たちは繋がっている。どこにいようと。……それでも
「……すぐに戻れないと分かって……辛かったっ」
「歯痒かった……そなたにばかり、……幾夜もここで待って……」
「ああ、待たせてしまった……」
「だが……頑張っていたのだと分かっているのだ。それでも……」
私たちはいつの間にか、ひと形になっていた。
鼻を擦りつけ合いながら、服が引っ掛かったままの互いの身体を、頭の毛を、耳を、頬を、撫で合う。腹を擦りつけ、足を絡め合い、片時も離れたくないと身を寄せ合う。
どれほどの時、そうしていたのか分からない。
いつしか月は隠れ、森に木漏れ日が落ち始めていた。
「美しいな」
「ああ美しい……」
私たちは互いを見つめ合い、微笑み合って鼻を擦りつける。
「そなたはますます気高く強く美しくなっていく」
「あなたこそ……その瞳も毛艶も。輝きを増しています」
惚れ惚れと見つめ合いながら、互いに笑みを躱し、鼻を擦りつけ合う。
「……そなたに伝えねばならぬことがある」
「ええ、私もきちんと報告しますね」
興奮を納めることなく、私たちは語り合う。
共にあるにはまだ障害がある。
けれど私たちは共にそれを越える。そのためにできることは何でもやる。そのために番にやってもらいたいことがある。同じ思いで行動しなければ、企ては潰える。だからこの森で何が起こっていたか、白銅の銀鼠は私に報せる。山で、黄金の森で、どんなことがあったか仔細に話し、どのように動いてもらいたいか、考えを伝える。
ただ……
私の策略のすべてを伝えることはしない。
白銅の銀鼠は、生まれた森で虐げられていたと聞いた。それでもアルファを守るミュウとして、懸命に働いていたと。
我が番は、愚直なほどまっすぐな人狼。それだからこそ愛おしい。
だがそれだからこそ、頼めないこともある。
この人狼は、私が守る。必ず幸せに笑えるようにしてやる。
◆ ◇ ◆
カイは干し果実や燻し肉などの保存食や、塩に風味を加えたり、独自に茶を炒ったりといった工夫をするのが好きだ。
元々の作り方はすべて筆頭に教えてもらった。カイはいつでも探りに出られるよう、保存のきく食いものを常備しなければならないからなのだが、それをさらに改良して旨くするのが好きなのだ。
やってみたら筆頭に食べてもらい、助言や苦言を言われれば工夫を凝らしてさらに改良する、というのを繰り返した。
そうして今の味が出来上がったのだ。筆頭も喜んだしシグマも褒めてくれるし、いいことだと思っている。
こういうのを始めたのは、筆頭から初めて褒められたとき、身が震えるほど嬉しかったから。もっと褒めてほしくて頑張ったら、シグマやルウなどみんなが褒めてくれるようになった。
そのうち茶も自分で工夫するようになり、それも褒めて貰える。嬉しいし、鼻も高いし、作るのがどんどん楽しくなっている。
そして今、共に来た筆頭の巣で、いない間に新たな工夫をした干し果実を渡した。
それを齧った筆頭は、にんまりと目を細める。
「ん~ん、これもうまぁい」
筆頭が次々くちに運ぶので、カイは嬉しくてたまらなくなって尾をブンブン振った。
「おまえはぁ~、くち数少ない分、尻尾に出るねぇ」
「ん」
「そういうの、抑えねえとなぁ」
「他で、出さない」
「そぉかい~? シグマいると、出ンだろぉ~?」
「シグマ、べつ、だから」
「ふぅ~ん?」
二匹とも気づいていた。
ベータ三席が巣の前まで来ている。なのに声ひとつかけずにいるのは、おのずと出て来いと言いたいのだろう。
「めんどうくさいねぇ~」
「……行く?」
「そうすっかねぇ」
干し果実をモグモグしながら、のろのろ巣を出ると、額に青筋を立てたベータ三席がいた。
筆頭と二席である二匹の方が序列は上だから怒鳴りこそしないが、ずいぶん苛立っているようだ。
「カイ筆頭、そしてカイ二席。アルファがお呼びです」
「うん。行くよぉ~」
間延びした声で答えると、ベータ三席はさらに苛立ちつつ、アルファの館へと先導する。二匹はぼんやりとした顔つきのまま追い、アルファの前に参じた。
「呼んだのは他でもない。務めを授ける」
ざらついた声が、地に伏した二匹の頭の上に降ってくる。
「先ほどの話では要領を得ぬのでな。黄金の森で何が起こっているか、探ってまいれ」
二匹のカイは、黙したまま尾をひと振りする。アルファはそれを見下ろして、満足げに頷いた。
「励めよ。期待している」
その背後に立つオメガも慈愛の籠った目で見下ろしている。
「さきほどは済まなかった。あのシグマに苛立って、そなたに無体を言った」
「…………」
カイ筆頭は少し頭を上げ、上目遣いにオメガを見る。
「許せよ」
「……はぁ~い」
「……」
間の抜けた声を返し、ひらりと尾を振って、カイ筆頭はニマァと笑う。
カイ一席はその横で地に伏したまま、身動ぎもしなかった。
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